トーマス・エドワード・ロレンス→蓮實重彦 | なるべく猟奇に走るなWHO'S WHO

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ジャンルは主に、映画・音楽・文藝・マンガです。
僕の好きな人物、作品をWHO'S WHO形式でご紹介します。


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いま、この瞬間、誰もが身近に感じていながら、仮に「長身」と呼ばれる
範囲に位置しているといった身振りで、あたかもそこに身長差という階級的
秩序が存在しているかのごとく錯覚しつづけること。また、そうした秩序が
急激に崩れるときに蒙る不快感は、生の条件を構成するものの無数の

系列を反語的に開示するものとして、あたりを埋めつくしている。過剰な

「身長」についての言説は、とりもなおさず、可視の領域の苛酷な限界点

をほのめかす、荒唐無稽で徹底して表層的な戯れにほかならない。
                             (「高身長批判序説」より)

なんちゃって、ちょっとマネしてみました。自分でも何書いてるかわからん。
こんな感じで蓮實重彦の文章は延々と続くのです。すごいね。
ちなみに先生、身長185㎝です!無駄にでかい!まあ、かつて東大総長

だったこともあり、押し出しがいいに越したことはないんだろうけど。






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前にも書いたように、僕は長いあいだ、重い蓮實病に罹っていたので、未だにときどき

それっぽい文体が出てきてしまうのです。やー、抜け出すのに時間かかったー。

文芸評論家にして映画批評家、ぼくはその両方で影響受けまくったのですが、まず

彼は、一風変わった映画批評家として世に出たわけです。当時の「映画批評」誌を

読み返してみても、ほんとうに独特で、すでに「蓮實節」みたいなのが表れてます。

基本「表層批評」なわけですね。「その作品内に表現された内容のみで論ずる」という。

「テーマ批評」にたいする反動だったと思います(でも佐藤忠夫とか川本三郎

とか、別に悪くないと思いますけど)。「とにかくスクリーンに映っているものを見なさい」

なんですが、じゃあ虚心に観てればわかるのかというと、もちろんそんなはずはない

わけで。彼ほど読者に(あるいは観客に)知識を要求してる人もないと思います。

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「ははあ・・・これは溝口健二のパスティーシュじゃないか」とか、わかんないとダメ

なわけですよ。ゼミの学生にも、映画館で年間100本観るのを課していたというし。

わかんないやつには平気で「それはバカだからです」言うし。わたしはゼミの学生では

なかったけれど、これを真に受けてヒーヒー言いながら意地になって観ましたよ。

まあもともと挑発的な人ではあります。

第一批評集「批評あるいは仮死の祭典」で、フランス現代思想、とりわけ

構造主義の紹介者として彼はまず脚光を浴びたわけですが、ミシェル・フーコー

ロラン・バルトへのインタビューでの、対話のズレみたいなものをみても、当初

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から構造主義や記号論から距離を置いている感じがしたものです。ありていに言えば

「ポストモダン」ということになるんでしょうが、単に彼は始めから「蓮實的」であった、

と言っていいかもしれません。そして、表層批評のマニフェストであり「物語批判」の書

でもある「表層批評宣言」。まあとにかく読みづらいことおびただしい!

このへんややこしいんで、あんまり触れたくないんですが、要は(「要は」ってやっても

いいのかしら)誰もが容易に接している物語というものが、限りなく反復されることに

よって、我を忘れ時間も忘れる瞬間(彼は「限界体験」と呼ぶ)発生するはずの「物語」

は、捨象・抽象化され、「誰もが安全に語ることのできる物語」になってしまう、という

不自由さをかかえている。「表層」と呼ばれるどこにもない場所で、物語の言葉は
はじめて自由になる、つまり限界体験に近づくことができるだろう・・・ってわかります?

なるべく猟奇に走るなWHO'S WHO そして皮肉なことにというか、それが彼の意図かもしれないのですが、この本そのもの
が「物語」として読まれてしまう、ということ。なんて屈折しまくったやり方なんだ!

「物語批判序説」では、より戦略的にフローベール「紋切型辞典」
なんかにかこつけて慎重に書いてる感じ。「説話論的磁場」ね。これがひとに、物語る

ことの不自由を自由と錯覚させる、つまり、他人の言葉を自分の言葉と錯覚させる、

というわけで。これを援用した「小説から遠く離れて」では村上春樹・

村上龍・井上ひさし・丸谷才一・大江健三郎・中上健次らの

代表的小説が、同じ構造を持っている、というのを論証?するんですが、一読ア然と

しました、てかここまでくると、文体といい、もう「芸」ですね。蓮實の後に蓮實なし。





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おお、「文藝的」蓮實でこんな書いてしまったぞ。まあ今回のテーマがそうだから別に

いいけどね。しかしやっぱり、なんといっても彼の映画批評の及ぼした影響たるや!

蓮實というとゴダールブレッソンみたいに思われがちですが、とにかく彼は

何でもかんでも観る。で、ちゃんと評価すべきものはする。まずこれは絶対に立派。

「温泉こんにゃく芸者」とか、阿呆しか観ないものまで観てる。なんなんだ!

「燃えよドラゴン」に満点つけてたしなあ・・・ただブライアン・デ・パルマ

とか黒澤明とか、あんなに悪く言うこともないのになあと思ったりもしますが。

とりわけ、世間の小津安二郎に対する見方を完全に変えたのは、彼の一番の

功績でしょう。「なるほど、そう観ればいいのか!」と、目からウロコでした。成瀬巳喜男もそう。

ニコラス・レイの特集上映なんて、彼が画策しなければ、まず実現しなかったはず。

彼の映画批評で初めて知った作家も多く、僕が映画狂になった原因の半分は彼の責任?です。

ここ数年でも「シルビアのいる街で」とか「わたしは猫ストーカー」なんかは、

彼が言及しなければ完全スルーでした。上映期間スレスレに映画館に駆けつけたもんだ。


低劣なフォロワーや模倣者も多く、そのせいか毀誉褒貶も多いひとではあるんですが、とにかく

映画に対する愛はビンビンに伝わってくる。だいたいにして、ちょっと優れたショットを観るだけで

目をウルウルさせる人間がどれだけいるでしょうか。すでに老齢に入り、ちょっと丸くなった感も

ありますが、しょーもない映画にはときおり激越な罵倒をなさることもあり、「いいぞ、もっとやれ!」

と野次馬に成り果てるわたしです。



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意外なことに、先生は熱狂的なスポーツファン(ことに野球)でもあり、

草野進(しん)名義で、スポーツに関した批評本も上梓しています。

これは当初、正体を明かさずに、妙齢の女性の(華道家とかいって)著者

と偽り出版されたのですが、いったいこれはどういう女性だ?とか、実は

男じゃないの?とかあれこれ憶測が飛び交ったものでした。

しかし、少し文体は変えてあるとはいえ、そのぐねぐねした文章でもう

バレバレ。先生のあの調子でスポーツを語る、というので僕も相当に期待

してましたが、これがあなた予想にたがわず面白い!

蓮實入門としてもよろしいのでは、と思います。




さて、それでは次に、「男か女かモメた」つながりにしてみようかと・・・