涼風文庫堂の「文庫おでっせい」171 | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

540冊、終了。

 

 

<坪田譲治、

庄司薫、

アイリッシュ>

 
 

541「風の中の子供」

坪田譲治
短編集   波多野完治:解説  新潮文庫
収録作品
 
1.風の中の子供
2.お化けの世界
3.善太の四季
4.甚七南画風景
 
二・二六事件直後、暗澹たる黒雲が日本をおおった時代、
子供の世界にまで押し寄せてくる社会の歪みに対して
子供たちはどう感じ、どう戦い、
また、どう変化してゆくかをテーマに描く 『風の中の子供』。
 
ほかに
『お化けの世界』 『善太の四季』 『甚七南画風景』
の3編を収録。
 
子供の眼を通して 
”怪物的、悪魔的、お化け的” 
な大人の社会を鋭く批判した名作である。
 
                        <ウラスジ>
 
この短編集に収められた、『お化けの世界』、『風の中の子供』、
そして前回紹介した、『子供の四季』、
この三作を合わせて三部作となっています。
 
主役はもちろん、善太と三平の兄弟。
 
『お化けの世界』がいち早く発表されたものですが、
この作品についての波多野完治さんの解説が、
その後の二作を含めた総合評価のように見受けられるので、
そのまま書き写しておきます。
 
 
この作品は、いわば、「実存主義的手法」とでもよばれる作品構成が、
どの小説よりもつよく出ていて、その点でもユニークなものである。
 
この小説では、
大人の世界の事件が後期の長編のように、
子どもの心理と平行的に叙述されず、
もっぱら子どもの側からばかり語られる。
 
そのために大人の世界の怪物的、夢魔的、お化け的性格が
一層つよくなり、読者は常識の世界とはまったくちがった世界に
ひきいれられるのを感ずるのである。
 
たぶんこういう構成法は、
社会の合理的説明解釈の不可能であった昭和初期の時代では、
ほとんど唯一の可能な社会批判の方法であったろう。
 
子どもをこんなに苦難におとしいれる社会に対し、
作者の沸沸たるいきどおりが著しくみえる点からも、
後期の作から区別されよう。
 
 
 
つまるところ、
『お化けの世界』とは、”大人の世界” であり、
『風の中』とは、戦争に向かう前の世相――平和や安穏に対する、
”逆風” を言うのでしょう。
 
また、
「子どもなどを書いていては、大人の世界の批判は不可能である」
などという批評家もいたようですが、
前回やった『子供の四季』も含め、
坪田文学の<子供もの>は、<子ども>を主役にした
一般小説であり、決して童話やメルヘンの範疇にだけ
納まるものではないということ。
 
例えるなら、”ビルディング・ロマン” の
<幼少年期>に特化したような小説である、
という事です。
 
故に、<善太と三平>には少々きつかろうと。
 
 
<余談>
兵役であれ、収監であれ、
父親が家からいなくなった状況下での
<こども>を描いた物語、これは結構あります。
少し前にやった、『若草物語』もそうでした。
 
また、こんな話もありがちです。
父のいない間に、実家や親戚のいる田舎なんかに行って、
そこで<不思議体験>をしたりして、
大人への階段を登る成長を促されたりする。
 
そして、父親の帰還とともに、再び現実世界へと戻って行く。
――ひとまわり大きくなって。
これは、ネスビットの『若草の祈り』。
 
<追伸>
子ども子どもと囃し立ててきましたが、
甚七南画風景』
だけは、ヨワイ八十になるお爺ちゃんのお話。
 
これはまた絶品の<老人モノ>で、
様々な、”老人小説”(そんなカテゴリーがあるらしい)の
アンソロジーに掲載されているようです。
 
 
 

 

542「さよなら快傑黒頭巾」

庄司薫
長編   奥野健男:解説  中公文庫
 
みんなを幸福にするために、
強くやさしく勇気ある男になるために、
薫クンはいま何をなすべきか。
                     
                     <ウラスジ(?)>
 
 
 
『赤』……「赤頭巾ちゃん気をつけて」
『白』……「白鳥の歌なんか聞こえない」
『黒』……「さよなら快傑黒頭巾」
『青』……「ぼくの大好きな青ひげ」
 
五輪憲章みたいだな……。
 
今回の薫クンのお話は、
<兵どもが夢の跡>という芭蕉の句が
ピッタリはまる、旧・全共闘世代の結婚式を
ハイライトにしてるんだけれど、
この世代が全国に瀰漫(?)してたかどうかは疑問に思えるんだ。
 
何故って、○○世代っていう括りはかなり雑然としていて、
数字的(生年月日)な判断でその名称を下されてしまう恐れが
あるから。
 
よく言われた<ノンポリ(学生)>、
あれって<右でも左でもない>じゃなくて、
実は<政治に関心がない>んでもなくて、
ただひたすらに<左翼じゃない>学生を示していたに
すぎないんじゃないか。
<左翼にあらずんば人(大学生)にあらず>みたいな。
 
その『転向』含めて描かれている結婚式の模様が、
なんだかまだ、違う意味で<格式ばって>いるんだな。
きちんと手順を踏んで、露悪的におのれの変遷を披歴するというような具合の企画も用意されているし。
 
 
久々の<庄司薫:調>は難しい……。
 
 
<余談>
苦渋、諧謔、頽廃――。
70年代~80年代。
学生運動や左翼をあつかった小説は、新人賞界隈から
何年かごとに姿を現わしていました。
 
その傾向が消え失せたのは、
島田雅彦さんが
『優しいサヨクのための喜遊曲』
で、トドメをさしてからでしょうか。
 
 
 
 
 

543「幻の女」

ウィリアム・アイリッシュ
長編   稲葉明雄:訳  早川文庫
 
その時刻、彼は、ただ一人街をさまよっていた。
たまらない不快な想いを胸に、バーに立ち寄ったとき、
奇妙な帽子をかぶった女に会った。
形も、大きさも、色まで南瓜そっくりなオレンジ色の帽子だった。
彼は気晴しにその女を誘ってレストランで食事をし、カジノ座へ行き、
酒を飲んで別れた。
そして帰ってみると、喧嘩別れをして家に残してきた妻が、
首に彼のネクタイを巻きつけて絞殺されていたのだ……!
 
刻々とせまる死刑執行の日。
唯一の目撃者 ”幻の女” はどこに……?
 
サスペンス小説の巨匠アイリッシュの最高傑作!
                                
                        <ウラスジ>
 
 
夜は若く、彼も若かった。
が、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。
 
有名な冒頭のこの一節、
ここから始まる、一気読みを誑し込んでくるような小説です。
 
 
あの江戸川乱歩をして、ここまで言わせた作品。
 
『幻の女』は私を夢中にさせた。
そしてその表紙裏に
 
”昭和二十一年二月二十日読了、
 新しき探偵小説現われたり。
 
 世界十傑に値す。ただちに訳すべし。
 
 不可解性、サスペンス、スリル、意外性、
 申分なし”
 
云々と書きこんだものである。
 
 
1942年に発行され、未だに色褪せず、
新たな<ミステリーベスト10>に
いつまでも選出されうる名作中の名作。