涼風文庫堂の「文庫おでっせい」160 | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<A・フランス、

ステープルドン、

ベリャーエフ>

 
 

505「エピクロスの園」

アナトール・フランス
長編   大塚幸男:訳  岩波文庫
 
 
懐疑派・自由思想家の面目躍如たる随想集。
洗練された筆で人間の知識の空しさと曖昧さを衝き、
権威には陽気な皮肉を浴びせかける。
                         
                         <帯スジ>
 
作家アナトール・フランス(一八四四-一九二四)は
思想的には懐疑主義の流れを継ぐ自由思想家といわれる。
本書はその随想集。
 
宇宙全体がはしばみの実くらいに縮んだとしても,
人類はそれに気づくことはないだろうという「星」をはじめ,
さまざまな題材を用いて洒脱にその人生観を述べている。
 
芥川はこの書の影響を受けて『侏儒の言葉』を書いた.
                        
                        <ウラスジ>
 
 
箴言集ではありますが、辞書の体裁をとっていないので、
一項目に関する記述が、いささか長い。
 
どちらかと言えば短めの随筆集といったところ。
 
と、言ってもせいぜい5~6ページなので、
読みやすい方でしょう。
『枕草子』や『徒然草』より、ちょっと長いぐらい。
 
では、箴言集という事で、いくつかの例を。
(長いものは端折って載せます)
 
 
無知
無知は、幸福の必要条件であるばかりでなく、
人間存在そのものの必要条件である。
もしわれわれが一切を知ったら、
われわれは一時間と人生に堪えられないであろう。
 
人生は楽しいとか、ともかくも我慢できるものだとか
我々に思わせる諸感情は、何らかの嘘から生まれるものであり、
幻想によってはぐくまれている。
 
芸術の対象
芸術は真理を対象とするものではない。
真理は科学に求めなければならない、
なぜなら真理は科学の対象だからである。
 
真理を文学に求めてはならない、
文学は美のみを対象としているからである。
いや美のみしか対象とはなし得ないからである。
 
恋愛
われわれは恋愛の中に無限を置く。
これは女のせいではない。
 
 
『芸術の対象』……
これなんか、確かに芥川が好きそうな考え。
 
 
 
 
 

506「シリウス」

オラフ・ステープルドン
長編   中村能三:訳  早川文庫
 
 
 
天才的生理学者トレローンの
高等動物の脳に関する研究は、まざましい成果をあげていた。
 
そしてついに恐るべき創造を――
神にしてなしうる業績をあげたのだった。
 
シリウスと名づけられたその犬は、人間に匹敵する知能を有し、
しかも同じような情緒と感受性を持ちあわせていた。
 
だが皮肉なことにこの業績によって、
彼の娘は悲劇の淵につき落されるべく
運命づけられてしまったのだ!
 
SFを人類文明の客体的認識のための形式として用い、
現代SFの創成期にあってもっとも重要な作家と評される
オラフ・ステープルドンが、
愛と知性の問題をするどく問うた名作!
                        
                        <ウラスジ>
 
『シリウス』は
人間を凌ぐ知能を備えたミュータント犬と少女の純愛を描き、
ステープルドンの作品中、もっとも小説的完成度が高い。
               
               <水鏡子:SFハンドブック>
 
純愛模様というより、小さい時から一緒に、
同じ環境で育てられた、”同志愛” といった感じが
しないでもありません。
 
ただ、本筋とはちょっとズレますが――。
シリウスの中で、知性の高まりとともに、
人間に対する根源的な侮蔑感が育っていくあたりが、
何とも複雑な感じでした。
 
全面的な人間に対する憧憬がないばかりではなく、、
『人間にはこれが出来ない』
いう物理的な事実から来る差別化、
それがもたらす哀れみと優越感――。
 
それはある種の『偏見』に変っていきます。
 
ここまで読んできて、何となくですが、
”やはり偏見は、ある程度の知性が生み出す徒花なのか”
思ってしまいます。
 
しかし、犬に馬鹿にされる人間たちっていうのもなあ……。
 
片や、人間には最初から備わっている、鳥獣に対する認識――。
人間を超える犬など、認めるはずがない。
当然のようこの二つは相入れずに対立します。
 
最後は、<人間 対 犬>という
短絡的な図式に落ち着かせようとする勢力とはなんぞや。
 
”デマやヘイトを最初に作り出すには、ある程度の専門知識が必要”
ある大学の先生がおっしゃってた言葉が大いに首肯けます。
 
 
かわいそうなシリウス。
 
 
 
 
 

507「ドウエル教授の首」

アレクサンドル・
ロマーノウィチ・
ベリャーエフ
長編   原卓也:訳  創元推理文庫
 
 
 
パリのケルン教授の助手に雇われたマリイは、
実験室内部の恐ろしい秘密を発見した。
 
人間の首、それも胴体から切断された生首だけが、
まばたきをしながら、じっと彼女をみつめているではないか!
それは最近死んだばかりの有名な外科医ドウエル教授の首だった。
 
しかもパリ市内では、
最近つぎつぎと不可解な事件が
続発しはじめていた。
 
ソヴェトSF界の水準を示すベリャーエフの古典的名作。
                        
                        <ウラスジ>
 
ベリャーエフに付けられたいくつかの渾名のうち、
”ロシア(ソヴィエト)のジュール・ヴェルヌ” 
というのがあるそうな。
 
なるほど、後半にかけて、
ケルン教授の悪企みを暴くために、
ドウエル教授の息子のアルトゥールや、
アルマンが登場してからは、
展開が早くなり、活劇めいた動きが出てきます。
 
それはまさしく、
ヴェルヌの『サハラ砂漠の秘密』を
読んでいるようでした。
 
そして、”首だけ人間” のドウエル教授の最後の判断は?
 
 
それにしても、ベリャーエフ自身が脊椎を損傷していて、
少なからず不自由な生活を強いられた体験から、
この発想が生まれたのか。
 
頭は動かせずとも、沈思黙考は可能。
脳髄にこそ価値がある。
 
――ここまで考えが飛躍したようです。