涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  91. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<評論とエッセイ>

 
 

293.「風俗小説論」

中村光夫
長編   河上徹太郎:解説  新潮文庫

目次

 

1.近代リアリズムの発生

   ――風葉・藤村・花袋――

2.近代リアリズムの展開

3.近代リアリズムの変質

4.近代リアリズムの崩壊

   ――横光・武田・丹羽――

あとがき

 

 

日露戦争後、ようやく形をとりはじめたわが国近代リアリズムの発生・展開・変質・崩壊の過程を追うことによって、自然主義が日本の近代文学に及ぼした独特の歪みを明らかにし、その嫡子としての私小説と風俗小説を分析批判した画期的文学論。

戦後、ジャーナリズムの発達で文壇の主流となった風俗小説を的確に理論づけるとともに、明快な近代日本文学史ともなっている名著である。

                                             <ウラスジ>

 

『風俗小説論』と言う名の『私小説論』です。

 

『私小説論』といえば、次に挙げる小林秀雄の名文がありますが、これはそれを踏襲して、具体的に分析したものと言えましょう。

 

フランス産の ”自然主義文学” が日本に輸入されて、どう変容していったかが、克明に述べられています。

 

中村氏も小林氏も仏文出身で、訳書も出されているので、ある意味看過できないところがあったのかも知れません。

 

フランスの自然主義。

 

もともと、それまでの浪漫主義に対抗して、自然たるものを根本におき、事実を飾ることなく書き連ねる、といった文学風潮であったと理解しています。

 

ことさらに事象を美化せず、写実によって活写していく。

この”写実主義” が、”自然主義” の雛形であったというのは衆目の一致するところでしょう。

 

『ボヴァリー夫人』がその写実主義の代表作と言われています。

 

ただ、フローベール自身は、”写実主義” を嫌っていたようです。

なんせ、『聖アントワヌの誘惑』や『三つの物語』という怪奇幻想文学の作者でもありますから。

 

で、その後出て来た、ゾラやモーパッサンで完成されると。

 

では日本で流通した ”自然主義文学” とその子孫たちの動向は――。

 

ひとことで言えば、みんな田山花袋の『蒲団』が悪いんだ、と。

あれのせいで、”自然主義” とは身近な現実を赤裸々に描くもの、となっていったからだと。

客観性は失われ、物語としての構成が疎んぜられるようにまでなったと。

 

思いをかけていた女弟子の、寝巻きや蒲団の

<におい>を嗅ぐ、と言う描写――。

 

後年読んだ、梶山俊之の小説で似たシーンがあったなあ。

そっちは女が男の下着の匂いを嗅いでいたという告白シーンだったけど。

 

で、で、極めて日本的な、<私小説>が誕生する、と。

 

 

これをまず読者の「意識」と考えると、何が書かれているかより、「誰」が書いたかに興味を持つ読者は、当然広い社会の読者ではなく、小説の作者が「誰」であるかをかなりよく知っている者でなければなりません。

理想を云えば作者の為人(ひととなり)や私生活の諸条件をよく知った文壇通の読者であることを要します。

何故なら一般の読者は小説に「何」が書いてあるかにこそ興味を持ちますが、その作者については彼の名前を面白い小説の、或いはつまらぬ小説の造り手として記憶するだけです。

「金色夜叉」の読者が「意識」の重点をおくのは、貫一やお宮であって紅葉ではなく、「赤と黒」の読者はジュリアンやレナール夫人に魅力を感じさえすれば、スタンダールの私生活について何も知る必要はないのです。

 

藤村が「新生」を新聞に連載したとき、主人公の姪との恋愛関係が暴露されると、花袋が「島崎君は自殺するのではないか」と心配したという挿話が伝えられていますが、これなどは当時、小説がいかに「小説」として読まれていなかったかの例証になりましょう。

 

フローベールもゾラも「ありもしないこと」を書いた点では、全く同じなので、ボヴァリー夫人は、方法に帰納と演繹の差はあっても、実在の女性たちに対しては、あたかも幾何学的の図形が自然界の事物に対すると同様に、抽象的なつくりものであり、その一般的な真実性は、ただ作者の想像力の「正確」さに負うているのです。

ところが「作者の生活すなわち自然」という概念から、小説の仮構性そのものを否定した我国の自然派作家に、「写実」の背面にあるこのような思想的力技が無視されたのは当然で、リアリズムは彼等にとってただ、「あるものをあるがままに描く」外面的技術と取られたのです。

 

 

 

昭和10年に小林秀雄の『私小説論』、昭和25年に中村光夫さんのこの『風俗小説論』が上梓されたにも拘らず、自然主義から派生した私小説は、今でも文壇の主流的な考えに影響力を及ぼしているようです。

 

私自身、私小説は嫌いではありません。

尾崎一雄の作品や、最近で言えば西村賢太さんの『苦役列車』なんかは、充分に楽しめる内容でした。

 

しかし、<絵空事ではいけない>みたいな論調が残る、新人賞の論評などを見ると、なにか根深い ”私小説礼賛” みたいなものが仄見えて、どこか違和感を覚えてしまいます。

前述したように、私小説は嫌いではありませんが、この考えには組みしません。

 

あまつさえ、ある作家が直木賞受賞の弁で、「絵空言を書いていた時は賞に縁がなかったが、身の廻りの事を書いたら賞が貰えた」とかなんとか言った日にゃあ……。

この発言には筒井さんとか、柴連とか、多くの作家が立腹なさったようで。

 

 

まだまだこのあたりの事は言い足りない気がしますが、あくまでこの本を読んでいた頃の自分の読書歴に鑑みて、後付けの知識は封印すべきと考えました。

私小説の在り方や味わい方については、これからも折に触れて述べていく所存でいます

 

 

 

 

 
 
 
 

294.「様々なる意匠・Ⅹへの手紙」

小林秀雄
中編   吉田凞生:解説

収録作品

 

1.様々なる意匠

 

   様々なる意匠

   批評家失格 Ⅰ

   批評家失格 Ⅱ

   現代文学の不安

   故郷を失った文学

   私小説論

   新人Ⅹへ

   文芸批評の行方

 

2.Ⅹへの手紙

 

   一つの脳髄

   女とポンキン

   からくり

   眠られぬ夜

   おふぇりや遺文

   Ⅹへの手紙

 

文学と人生 (鼎談)

小林秀雄 / 中村光夫 / 福田恆存

 

 

第一部は、著者の文壇登場作である「様々なる意匠」、

近代日本文学の根底にある問題を提起した「私小説論」「文芸批評の行方」など代表的論文

八篇。

第二部は、処女作「一つの脳髄」を始め、「Ⅹへの手紙」「おふえりや遺文」など

著者の誕生と成熟を物語る創作六篇を収めた。

                                              <ウラスジ>

 

 

自分でもよく憶えてないので、”波線~” を引いてある文を抜き書きしてみます。

 

*世捨て人とは世を捨てた人ではない。世が捨てた人である。

*芸術はつねに最も人間的な遊戯であり、人間臭の最も逆説的な表現である。

*子供は母親から海は青いものだと教えられる。

 この子供が品川の海を写生しようとして、眼前の海の色を見た時、それが青くもない赤くもない

 ことを感じて、愕然として、色鉛筆を投げだしたとしたら彼は天才だ。

*いわゆる「新感覚派文学運動」なるものは、観念の崩壊によって現われたのであって、崩壊を

 捕えたことによって現われたのではない。

 それはなんら積極的な文学運動ではない。

 文学の衰弱として世に現われたにすぎぬ。

 

 

ここで言う<意匠>とは、平たく言えば<レッテル>の事だと受けとめています。

また、その<レッテル>を基準に議論を進めて行くと、論じられる事象そのものが矮小化されてしまうきらいもある、と言う風にも感じられました。

 

そこで再び、『私小説』についてです。

 

小林秀雄の『私小説論』と、中村光夫さんの『風俗小説論』。

 

これは前回の中村光夫さんの『風俗小説論』の解説にあった河上徹太郎の論ですが、遅ればせながら引用させていただきます。

 

 

小林秀雄のはこのわが文壇の特殊事情を、個々の作家の個人的な生き方と書き方、つまりその作家のモラルと方法論の上から見ようとする。

即ち個人主義的見方で、ある。

 

これに対し中村光夫のは、その批評的イメージは殆ど全く同じでありながら、これを文学史的系列の上に体系化して見ようとする。

即ち、社会的な見方である。

 

 

まだまだ続く、『私小説』のはなし。

 

 

この本の第二部は、<評論家・小林秀雄>の創作集、つまりは小説群です。

 

なかでも『おふぇりや遺文』。

女性の一人称で書いてあります。

なんか太宰の『駆込み訴え』と『きりぎりす』を思い出してしまいました。

 

しかしこの辺の『ハムレット』の登場人物にスポットをあてたものは、あの志賀直哉でさえ、『クロ―ディアスの日記』を書いているように、余程の魅力的な題材だったのでしょうね。

 

 

ただ、不良っぽいランボーの訳を読んだ後に、

 

『ハムレット様。

いまは静かにあなた様にお呼びかけすることができるのです、……』

 

と来た日にゃ戸惑いますよね。

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 

295.「日本人とユダヤ人」 大宅賞

イザヤ・ベンダサン
長編   角川文庫

目次

 

はじめに

 

1.安全と自由と水のコスト

   (隠れ切支丹と隠れユダヤ人)

2.お米が羊・神が四つ足

   (祭司の務めが非人の仕事

3.クローノスの牙と首

   (天の時・地の利・人の和)

4.別荘の民・ハイウェイの民

   (じゃがたら文と祝砲と西暦)

5.政治天才と政治低能

   (ゼカリヤの夢と恩田木工)

6.全員一致の評決は無効

   (サンヘドリンの規定と「法外の法」)

7.日本教徒・ユダヤ教徒

   (ユーダイオスはユーダイオス)

8.再び「日本教徒」について

   (日本教の体現者の生き方)

9.さらに「日本教徒」について

   (是非なき関係と水くさい関係)

10.すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」

   (黙示的世界とムード的世界)

11.処女降誕なき民

   (血縁の国と召命の国)

12.しのびよる日本人への迫害

   (ディプロストーンと東京と名誉白人)

13.少々、苦情を!

   (傷つけたのが目なら目で、歯なら歯で、つぐなえ)

14.プールサイダー

   (ソロバンの民と数式の民)

15.終りに――

   (三つの詩)

 

あとがき――末期の一票

 

 

 

ユダヤ人との対比というユニークな視点から展開される卓抜な日本人論。

砂漠vsモンスーン、遊牧vs農耕、放浪vs定住、一神教vs多神教等々という興味深いコントラスト、日本の歴史と現代の世相についての豊かな学識と深い洞察、新鮮で鋭い問題の提示とその展開、絶妙の語り口によって、”日本” および ”日本人” を鮮明に描き出す。

                                              <ウラスジ>

 

 

日本人は、水と安全は ”タダ” だと思っている。

このフレーズはインパクトがありました。

昨今はどちらも危うくなっていますが……。

 

今となっては、イザヤ・ベンダサンが山本七平氏のペンネームであることは、自明の理となっていますが、当時はそうでもなかったようです。

「イザヤ・ベンダサン=山本七平」が決定づけられたのは、あの本多勝一氏との論争においてだったと思えます。

 

もともとは本多氏の『中国の旅』で著わされた ”南京の百人斬り” に端を発した論争でした。

 

それが論争のやりとりの中で、本多氏が『イザヤ・ベンダサンと山本七平氏が同一人物である事などには興味がない』と再三にわたって添え物のように付け加えたものだから、読んでる側としたら「ああ、そうなんだ」と感じてしまいます。

 

折しも、イザヤ・ベンダサンの『日本教について』が文春文庫から出された頃で、それには、

<イザヤ・ベンダサン:著  山本七平:訳>と銘打ってあったからです。

『日本人とユダヤ人』には訳者がいなかったのに、これはどうしたことか、と話題にもなりました。

 

大方の見方は ”同一人物” と決まっていたようですが、この本多氏の何気ない(?)繰り返しが、裏付けとなったことは否めないでしょう。

 

あの頃は左派・左翼の論調が群を抜いていて、保守派・右派の元気がなかったからなあ。

今とは真逆です。