涼風文庫堂の「文庫おでっせい」  72. | ryofudo777のブログ(文庫おでっせい)

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私が50年間に読んだ文庫(本)たち。
時々、音楽・映画。

<サド侯爵登場>

 
 

234.「悪徳の栄え」

マルキ・ド・サド

長編   澁澤龍彦:訳  角川文庫

 
この本に関しては色々と記憶している事があります。
 
まず読み通すのにかなりの時間を要しました。
 
当時、家の中がバタバタしていて、何やかんやと作業している合間に読んでいたからでしょう。
一か月ほどかかったでしょうか。
繰り返し、手に取ったせいか<小口>がかなり黒ずんでいます。
 
今考えればこういった付き合い方が、この本にとっては良かったと思えます。
 
 
 
十三歳だったジュリエットが修道院で性の手ほどきを受けて、そのあとノアルスイユと言う金持の極悪人と欧州を<犯罪行脚>をしていくお話です。
サン・ファン、クレアウィルという外道とも知己を得、『犯罪友の会』というところにも籍を置きます
この会の二十六にも及ぶ規約と、入会許可の十二の教書、これをつぶさに見てゆくと、その後のジュリエットの行状が予測出来るでしょう。
 
虐待、虐殺、普通に殺人、とジュリエットの旅や生活が続きます。
 
 
性愛用語の訳出に澁澤さんの苦労が窺えます。
『千鳥』
『若気』(にやけ)
『親嘴』(しんし)
笑ってしまったのが『菊座』です。
『ウゴウゴルーガ』の<サナダせんせい>の登場シーンが目に浮かびます。
 
 
 
で、ここからはちょっと真面目なお話です。
これは、この本を薦めてくれた友人の受け売りが大半を占めるのですが……。
まとめるのが難しいので、まずは箇条書きにしてみます。
 
*ジュリエットの役割。
年端の行かない娘を、すでに悪徳に染まり切った大人が教育・調教していく。
いわば、ショーの『ピグマリオン』状態で、問われるべき価値観はジュリエットには存在しない。
 
*サドの分身ともいうべき悪の調教人たち。
彼等は一様に饒舌で、えんえんと己の<悪徳観>を語る。
この確固たる<悪徳観>に見えるものが、饒舌である事によって、かえって揺らいで見えるのはなぜか。
 
*<悪の哲学>とは何か。
いわゆる哲学的考察について。
行動を起こす前に考える事、それを踏まえての行動の後に考える事、これは理論武装の色合いが濃い。
それと違って、己の快楽原則に乗っ取って行動した後に訪れる考察めいたもの、これは自己弁護の範疇を出ない。
ここらあたりが、なぜかしばしば比較されるドストエフスキーとの違いであると思う。
 
*登場人物の出自について。
サド自身が爵位の持ち主であることからして、この物語のメインキャストたちはみな<上級国民>である。
ゆえに悪ぶってはいるが、幼少の頃は、宗教の御旗のもと、慈愛、規律、道徳といった王道教育を受けていたであろう。
この肌の奥にまで食い込んだ教えは、大人になって自我を開放をしたとしても、なまなかに払拭出来るものではない。
彼等の喋ることの裏側には常に公序良俗の下地が覗いている。
 
*罪の意識の存在について。
最後に近い場面でノアルスイユとジュリエットは、フォンタンジュという娘の両眼玉をくりぬき、両手を切り落したうえで傷口に包帯をし、舌をやっとこで抜き取る。
 
「これでよし」と彼が言いました。「これでもう彼女は手紙も書けないし、目も見えないし、誰に話をすることもできないというわけで、わしらは安心していられるよ……」
 
この後ノアルスイユは『まだ聴覚が残ってる』とのジュリエットの助言を受け、彼女の耳の孔に鉄の棒を突っ込んで、残された唯一の器官を奪ってしまう。
 
やはり罪の意識は大いにあるようだ。
犯罪の発覚を恐れるあまりの緻密な方策。
ジル・ド・レーやブランヴィリエ夫人のような<本物>と違って、<小物感>がプンプン匂って来る。
このノアルスイユの言葉と行動で、この物語をささえていた<悪の哲学>とやらは、一気に破綻する。
 
*早急な結論として。
これはサドの<仮面の告白>であって、本当に望んでいたものを書き連ねたのではない。
彼がやりたかったことは、せいぜい乞食女をムチで打ち据えたり、自宅や娼館でどんちゃん騒ぎをする事ぐらいのことであったろう。
それで捕まったことが、事のほか恥辱に思え、かような己の趣味嗜好を隠すために書かれたものが一連の書物であり、その代表格がこの『悪徳の栄え』だと考えている。
 
これはある意味、恐ろしく抑制(隠匿)のきいた物語である。
 
抑制する方法は二つある。
ひとつはひたすら隠忍自重すること。
もうひとつは同じベクトルで突き抜ける事である。
針小棒大ではない。
小さなことを全く言わずして、大きなことだけを言いつのるのである。
大きければ大きいほど、その実体は掴みにくくなる。
 
神をも恐れぬ、虐待、虐殺の意義を認める人間の誠の願望が、女の尻を鞭で引っ叩くことや、獣姦、鶏姦の試用レベルであることなど、誰が想像しえよう。
 
憑依もするだろう、針もそちら側に大きく振れているだろう。
しかし、サドは狂人ではない。
狂人ではないから他の反道徳的な書物を物に出来た。
美徳や良俗に逆らった。
逆に言えば美徳や良俗が身に刻まれているが故に反抗できたのである。
そこがサドのジレンマであり、悲劇だったと思う。
 
幸か不幸か、サドの名は、彼が書いた残虐非道な物語の著者としてではなく、「アルクイユ事件」に代表される女を鞭で打ち据えるという行為の当事者として認知されてしまった観がある。
しかし、それこそ彼が本当にやりたかったことだから、ある意味本望なのかもしれない。
 
*私見として。
さすがに澁澤龍彦さんは判っていらっしゃる。
これは極論の具現化を楽しむ作品であって、此処で論じられる話や行われる非道を そのまま<真理である>とか<共感できる>などとのたまうのは、およそ軽佻浮薄の誹りを免れない。
 
 
 
「一種の教養小説であり、修業の書である。エネルギッシュな魂が徐々に形成されていく過程を、私たちはそこに認めることができる」
 
訳者でもある澁澤さんがモーリス・ブランショの評を紹されたあとにこう述べられています。
 
【つまり、これは裏返しの教養小説なのであり、ひとたび悪の立場を選んだ人間、至上者たることを選んだ人間は、その否定精神をとことんまで発揮しなければならないということを説いた、いわばエネルギー崇拝の倫理の書ともいうべき性質の小説なのである。】
 
 
この本はある程度、物の道理が判った年齢になってから読む方が無難だと思います。
私の場合、十代で読みましたが、前述した友人の示唆もあって、悪徳への憧憬を感じることもなく、少々、不快で退屈な読み物という認識が残っただけでした。
 
今なら充分楽しんで読めると思うんですが。
 
 
 
 
 
 

235.「影を踏まれた女」 岡本綺堂怪談集

岡本綺堂
短編集   都筑道夫:解説  旺文社文庫

収録作品

 

1.青蛙神

2.利根の渡

3.猿の眼

4.蛇精

5.清水の井

6.一本足の女

7.笛塚

8.異妖編

9.月の夜がたり

10.木曾の旅人

11.影を踏まれた女

12.百物語

13.西瓜

14.白髪鬼

15.妖婆

 

都筑道夫さんが選んだ、連作のようで連作ではない短編集。

全てが怪談噺で、百物語のように語られます。

殆どの物語が、<○○は語る>で始まります。

 

後々まで残っていたのは『猿の眼』です。

木彫りの面の眼が光るという不気味さは、映像化された『八つ墓村』で再確認しました。