【欧州移民の悲劇③】アメリカの「建国に伴う罪」塗り替えられるコロンブスの歴史 | 中谷良子の落書き帳

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②のつづきです。

欧州から見えてくる日本の未来。ダグラス・マレー氏が、移民に警鐘を鳴らし反対する声は「多文化主義」のスローガンに押しつぶされ、声を上げる英国民や論者は「人種差別主義者」として攻撃された。そのように保守派を攻撃したのは政治家であり、いわゆる博愛主義者やグローバリストであった。


【欧州、移民の悲劇②】洗脳される「罪悪感」で悲劇を生む
https://ameblo.jp/ryobalo/entry-12502239416.html



それに似たものは「欧州人の輸出品」と非難されるもうひとつの国でも見られる。経済的な基準からすれば、そこは地球上で最も成功した国である。

クリストファー・コロンブスがバハマ諸島のどこかに上陸してから数世紀の間、彼の「アメリカ」発見は良いことだと考えられていた。コロンブス自身も自らの英雄的な偉業を祝った。その到着から4世紀後にも、アメリカへの移民達は依然として一般からの寄付金で彼の像を建てていた。

ところが500周年を迎えた1992年までに風向きは変わっていた。コロンブスはもはやアメリカの「発見者」ではなかった。実際にはアメリカの破壊者だったのだ。今のアメリカには、そもそもコロンブスがこの国を発見しなければよかったと思っているような人々が続々と増えている。

コロンブスその人に対する見方も、「成功した探検家・冒険者」から「植民地主義者」、そしてもちろん「大量虐殺者」へと変わった。

500年祭に合わせ出版された数々の本には、それが義務であるかのように、コロンブスの行為はナチスの行為の先駆けだったと書かれている。ある作家は「アウシュヴィッツへの道は西インド諸島と南北アメリカの中心をまっすぐに貫いていた」と記した。

別の人気作家が書いた“THE CONQUEST OF PARADISE(楽園の征服)”という本では、コロンブス以前のアメリカを、文字通りにも比喩的にもエデンの園として描いている。そこは人と自然が完璧な調和の中で共存していた場所だったと。

そしてコロンブスが誕生に導いた国は、それとは対照的にどうにもぞっとするばかりで、今や地球破壊をもたらす原因になろうとし始めているように見えると。

それからの歳月、アメリカではコロンブスにかかわるものすべてが再検討された。国民的な祝日である「コロンブスの日」という名称を「先住民の日」に改め、コロンブス以前からアメリカに住んでいた人々に焦点を当てる機会としている。

先住民の血を引くある女性は、オクラホマシティのラジオ局での討論番組に参加し、こう語った。

「私は長年、戦ってきました。私達の国や州や都市が、先住民を殺害し、奴隷化し、レイプし、当時の人口を激減させた男の記念日を祝っているという事実とね」

もちろん、それらはどれひとつ彼女の生きている間に起こったことでなく、彼女の知り合いの生きている間に起こったことでもなかった。ここでもまた加害者と被害者はどちらも死んでおり、苦い感情を和らげる方法は、あったとしてもごくわずかだ。

そのひとつの選択肢と言えるのが、オーストラリアと同様に、野生を賛美する神話や物語を語ることだろう。そうした神話は世界中に存在するものの、西洋の脱工業化社会には特にしっくりとくる場所がある。それらの神話は現代文明の確立を、単に「かつては美しかった土地の破壊」と見るだけでなく、「それまでは汚れのなかった人間が強欲という最悪の罪で満たされる過程」と見る。

その視点は18世紀のジャン・ジャック・ルソーによって発明されたものではないにせよ、提示されたものだが、20世紀後半から21世紀前半にかけて特別な人気を獲得した。その見方に従うなら、世界中を巡り植民し、エデンの園を破壊したのは欧州人なのだ。

欧州人が世界に広めたと非難されている罪のひとつに、アメリカの「建国に伴う罪」を構成するものがある。すなわち奴隷制と、それを介した人種差別主義者だ。アメリカの歴代大統領が何十年もこのことを謝罪してきたと述べるのは、あまりに控えめな表現に過ぎるだろう。同国は200年近くも前にこの問題を巡り内戦を戦い、勝利を上げたのだ。

それにもかかわらず、1998年にウガンダを訪問したクリントン大統領は、またもや奴隷貿易のことをしつこく謝罪した。彼や側近達がそうすることで事を荒立てずにおけると考えたなら、これ以上の誤りはなかった。

奴隷貿易に関わった人々は、ウガンダ側にも、少なくともアメリカ側と同じくらい大勢いたのだ。ところが欧州人の子孫だけが先祖の行為に罪悪感を覚え続けるべきだという考え方は、今や欧州以外のすべての国の人々に植えつけられ、利用されている。


ここ20年ほどの間にアメリカの黒人の置かれた状況はゆっくりと改善したが、恥辱の言葉は逆に増えていった。この国では二大政党の双方がすでに黒人の国務長官を指名している。黒人の最高裁判所判事もいるし、黒人の大統領もいる。しかしバラク・オバマ政権の2期目にさえ、すべてのアメリカ黒人に賠償金を払うべきだとする要求は高まり続けた。

実際、社会の主流にある人々も、これまで以上にそのことを議論するようになっている。オバマ政権の6年目には、何をしようと本当の意味で過去の罪は贖罪されないのだということを証明するかのような動きが起こった。

白人のアメリカ人は黒人のアメリカ人に対して何世紀も前に先祖がしたことの和解金を支払うべきだという考え方が、社会の主潮になっていたのである。

そうした賠償行為に対する疑問の声が、その後の議論の中で取り上げられることはなかった。欧州人とその子孫だけが償いを続けなければならないのだ。

アメリカではオーストラリアと同様、罪悪感というドラムの連打のために、人々が自分達の過去に対し抱く自然な感情が変化してきている。愛国心が恥辱感に、あるいは少なくとも非常に複雑な感情に変わり、その結果として困った影響が現れてきているのだ。

悪いことなど一切したことがないのような、あるいは挽回不可能なほどの悪事を働いたと信じている国は、将来も良いことをする能力は持てないのではないかと不安がる国になりがちだ。そうした国はどんな行為をするにせよ、自らを疑ってしまう。ある国に原罪思想を植え付けることは、自己不信を育てる一番の方法なのだ。

国家的な原罪とは、「お前達にそれほど良いことなどできやしない。なぜなら初めから堕落していたのだから」と国民に示唆するものなのである。


だが、もし大量移民が植民地主義のような歴史上の悪行を償うプロセスの一環だとしたら、なぜ私達は現在のトルコと同じように扱わないのか?

トルコも人口の大半を置き換えられて当然の国なのか?

そうだとしたら、どこから移民の波が来るように促すべきなのか?そのプロセスに不満をもつトルコ人は皆、「人種差別主義者」呼ばわりされて口を塞がれるべきなのか?そして、そのプロセスにストップがかけられることがあるとしたら、それはいつであるべきなのか?

実際、私達が歴史上の悪行のために人口の「多様化」を強いられる段階にあるのだとしたら、なぜサウジアラビアはそうした「多様化」を強いられないのか?

なぜ世界中の少数民族にイランに向かうよう促すことによって、イランにその歴史を償わせようとしてはならないのか?

すべての国や国民、宗教、人種はそれぞれの時期に何かしら恐ろしいことをしてきたのだから、しかもほとんどの人種や文化はこのような形で罰せられてはいけないのだから、最近の動きの背景には反西洋的な、分けても反欧州的な動機があると見るべきではないだろうか?