「どうにかなろう」じゃ日本が滅ぶ!今こそ伝えたい幕末の名臣・小栗上野介の生き様と名言 | 中谷良子の落書き帳

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核武装・スパイ防止法の実現を

いつの世も平和ボケなる者はいたんですね。「仕事があるから、生活があるから、何もできない」そんなことはすべて言い訳です。そのような現状でも何かひとつ取り組めることはある。今を生きる私達より途方もなく過酷な時代を生き抜いて死ぬ気で戦い、今の美しい日本の伝統・文化を形成してきたのが先人。現世の方々は、甘ったれたらあかん。



いつの時代も憂国慨世(※1)の士はいるものですが、そういう人物に対して水を差す者も少なくありません。

「しょせん君一人が何をしようがすまいが、結局この世はなるようにしかならないよ」

「そんな辛気臭いことより、もっと楽しいことを考えよう。まぁ『どうにかなる』さ」

……そう言われてしまうと、何だか熱くなっている自分がえらく野暮ったく思えてしまい、そのまま空気に流されてしまう方が大半かも知れません。

しかし、そんな中でも信念を曲げない男たちも確かにいました。


横須賀・ヴェルニー公園にある小栗上野介の胸像。

今回はそんな一人、幕末に活躍した小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけただまさ)の名言&エピソードについて紹介したいと思います。

(※1)ゆうこくがいせい。社会の行く末を案じて義憤に燃えること。

●小栗上野介の生涯を辿る
小栗上野介忠順は文政十1827年6月23日、江戸で旗本・小栗忠高(おぐり ただたか)の子として誕生。幼名は剛太郎(ごうたろう)、元服して忠順(ただまさ)と名乗り、17歳で幕臣として徳川将軍家に仕えました。

若い頃から文武両道の士として抜擢されますが、才能に驕ってか歯に衣着せぬ言動が同僚や上司に疎まれることも間々あったようです。

しかし、それでも真摯に奉公する忠順の至誠は多くの者から評価され、次第に声望も備わっていきました。

そんな忠順の転機となったのは嘉永六1853年7月8日、開国通商を求めて黒船つまりペリー率いる米海軍・東インド艦隊が浦賀に来航した事件でした。


幕末の瓦版に描かれた「黒船」。人々の恐怖と好奇心、そして衝撃が如実に表現されている。

幕府が圧倒的な海軍力の差ゆえにペリーと同等に交渉できず、不平等な条件を呑まされた屈辱から、国力を増強するべく欧米列強と積極的な通商を主張するようになります。

安政二1855年に父・忠高が亡くなると家督を継いで小栗豊後守(ぶんごのかみ)を称し、安政七1860年には遣米使節に同行。日米修好通商条約の通貨交換比率の見直し協議やワシントン海軍工廠の視察などを通して、製鉄および造船技術に強い関心を持つようになったのでした。

帰国後、外国奉行や勘定奉行(就任した文久二1862年、上野介を称する)を歴任した忠順は、文久三1863年に製鉄所の建設を提言。十四代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)の承認により、フランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの指揮で建設を進めました。


明治初期の海軍工廠。ここから海洋国家・日本を支える多くの艦船が巣立っていった。

これが後に横須賀海軍工廠となり、海洋国家・日本の近代化に大きく貢献するのですが、他にもフランス軍事顧問団を招いて陸軍の近代化や、経済面では関税率の改定交渉や大商社の設立による海外貿易支援、日本初の本格ホテル「築地ホテル舘」の発案など、後に討幕派さえも一目おく手腕を発揮しました。

しかし、そんな忠順も戊辰戦争(慶応四1868年1月3日~明治二1869年6月27日)が始まると、新政府軍に対して徹底抗戦を唱えたため、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)により「過激な主戦論者」として罷免されてしまいます。

忠順の才覚と軍略を惜しむ者たちが米国への亡命を勧めたり、彰義隊(しょうぎたい)の隊長に推したりするも、彼は「主君に戦うつもりがないなら、自分も戦う理由がなく、最後まで忠節を全うしたい」と断り、やがて領地である上野国群馬郡権田村(現:群馬県高崎市倉渕町権田)の東善寺に隠居。

村人の記録によれば、現地で村の用水路を整備したり、寺子屋を開いて子供たちに学問を教えたりしていたそうですが、忠順の実力を恐れた新政府軍によって捕縛され、取り調べもないまま斬首されてしまいます。享年42歳。

村人の記録によれば、現地で村の用水路を整備したり、寺子屋を開いて子供たちに学問を教えたりしていたそうですが、忠順の実力を恐れた新政府軍によって捕縛され、取り調べもないまま斬首されてしまいます。享年42歳。



時は慶応四1868年閏4月4日、日本の未来に多くの遺産を託し、人々に惜しまれながらその生涯に幕を下ろしたのでした。

……さて、そんな忠義一徹を貫いた忠順の生涯でしたが、その中で残された彼らしい名言を次に紹介していきたいと思います。

時は幕末、滅びゆく幕府をどうにか建て直し、日本国の未来を切り拓くべく外交に財政に活躍した名臣・小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけ ただまさ)。

志半ばにして惜しまれながらも斬られてしまった忠順ですが、ここでは横須賀製鉄所や財政・軍事改革など、多くの業績と共に彼が遺した名言を紹介したいと思います。

「幕府の命運に限りがあろうと、日本の命運に限りはない」
これは製鉄所の建設中、佐渡奉行の鈴木兵庫頭重嶺(すずきひょうごのかみ しげね)のからかい?に対して返した言葉です。

さぁ幕府の海軍力強化だと言って始まった製鉄所の建設ですが、当然ながらその完成には年単位の歳月がかかります。


佐渡奉行・鈴木重嶺(晩年の写真)、Wikipediaより。

「多額の費用を投じたところで、製鉄所が出来る頃には当の幕府が存続しておるかわからんな(笑)」

それでは本末転倒かも知れませんが、忠順にはもっと大きなビジョンがありました。

自分が提言し、総力挙げて進めているこの事業は、幕府のためとか、薩長藩閥のためとか、そんな小さな視野ではなく、日本国の命運を切り拓く力となる。

己の利害損得を越えて公益に供する誇りと、国家百年の大計に与(あずか)る自負を持てばこその台詞と言えるでしょう。【意訳】「親が不治の病と知って、薬を与えないのは親孝行ではないように、滅ぶだろうからと言って幕府を見捨てるのは、武士の振舞いではない」

倒幕の機運が高まる中、我が身可愛さにそれまで御恩に与っていた者たちが次々と幕府を裏切る中での台詞と伝わっています。

勝負盛衰などはしょせん時の運に過ぎない。最後まで自分にできる最善を尽くしてこそ、開ける未来もあるというもの。

どこまでも真っ直ぐな忠順の生き方が、よく表れた台詞の一つです。

「一言で国を滅ぼす言葉は『どうにかなろう』の一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」

確かに世の中、何もしなくても「どうにかなる」ものですが、どうにかはなっても、その結果は往々にして残念なもの。

「自分一人くらい、手抜きしたって『どうにかなる』さ……」

「いくら君一人で頑張っても、『どうにかなる』ようにしかならないよ……」



滅びゆく幕府(戊辰戦争・上野合戦)。Wikipediaより。

そんな一人一人の諦めや無気力が、ついには幕府を滅ぼしてしまったことに対する痛烈な苦言です。

確かに一人の才能や努力など、たかが知れています。しかし、どんな大きな仕事も組織も、その一人々々が支え合うことで成り立っているのです。

「一人がみんなのために。みんなが一人のために」

誰か任せでなく、まず自分が当事者としての意識を持つことの必要性は、今も昔も変わりません。


●「お静かに」
斬首される直前、忠順の潔白を主張して騒ぎ立てた村人や家臣たちを、優しくたしなめた言葉です。

自分はこの生涯において、なすべきことはすべてなした。あとは後世の者たちが遺された仕事を評価すればいいだけのこと。

何より、あなたがたがこのように死を惜しんでくれているのが、仕事の正しかった一番の証拠。

「お天道様が見てござる」

そう粛々と死に赴く高潔な佇まいは、明治の世へ生き残った者たちに深く感銘を与え続けたことでしょう。

終わりに
「人事を尽くして、天命を待つ」

……そんな言葉を体現したような忠順の生涯でしたが、その生き方は現代社会に蔓延する冷笑主義やニヒリズムに立ち向かう強さを教えてくれるようです。

「どうにか『なる』なんて馬鹿でもわかる、どうにか『する』のが大人の役目だ」

かつて、そんな心意気で時代を切り拓いてきた先人たちに恥じない生き方を目指していきたいものです。


自分の遺した仕事が、少しでも日本の役に立たんことを。

角田晶生(つのだ あきお)
https://mag.japaaan.com/archives/102551/2