【必見記事】スマホなんか大嫌い! | 中谷良子の落書き帳

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核武装・スパイ防止法の実現を

ながらスマホが厳罰化されるとのニュースが出ていましたが、昨今におけるスマホ依存は、あまりにも異常だと思います。後半の私が尊敬する保守評論家・西部邁先生の対談も現代日本人に是非ご覧いただきたいです。(日馬富士に対する指摘だけは同意できませんが。)

最近、産経の【河崎真澄の緯度経度】というコラムで、「スマホ、監視カメラ…中国は今、ジョージ・オーウェルの「1984年」の世界」というテーマの記事がありましたが、恐ろしいくらいに全世界が、全体主義社会がいかに人間を不幸にするか(近い将来)を表現した暗い本「1984年」(支那の世界覇権を予言しているとしか思えない。)化し、知らず知らずのうちに私達は“支那牧場”の動物にされています。「1984年」が現実化しないように祈るばかりです。


ジョージ・オーウェル

「君が未来の世界を描きたければ、人間の顔を踏みつけるブーツを思い浮かべればよい。永久に踏みつける図を、ね。顔というものは踏みつけるためにあるものだ。」
●「1984年」ストーリー(ネタバレ注意)
主人公ウィンストン・スミスは中流の「党外局」に所属しており、過去の記録(あらゆる書物や新聞記事)を改ざんし続ける仕事に就きながら、党による思想支配、2+2=4と言えない世界、常に監視され、密告され、党の思想に反逆した考えを抱くだけで「蒸発」させられる社会のあり方に疑問を抱いています。もちろん恋愛もそれに準ずる行為も禁止。男女間に愛や肉欲があると見なされると結婚できない。

●スキだらけのだらしない姿
時代についてゆけぬ初老男のたわごとと受け止めていただきたい。

神戸市のJR三ノ宮駅で63歳の男が、歩きスマホの55歳の女に体当たりを食らわせ重傷を負わせたとして逮捕された。

正直に言えばスマホを持たぬ身にとって、歩きスマホは他人がよけてくれるだろうという甘えと傲慢さが感じられ不快なことこのうえない。加えて、スキだらけのだらしない姿は、戦後日本の平和を象徴しているように感じられ嫌悪感を覚えてしまう。

ついでに言っておくと、イヌを散歩させているつもりでイヌに散歩させられている人をよく見かけるが、歩きスマホの姿は、私にはスマホに散歩させられている奴隷のように見える。

こんな人間ゆえ、とっちめようとする人の気分がわからぬでもないが、その行為を擁護する気持ちはまったくない。スキだらけの人間にいきなり危害を加えるなんて卑怯(ひょう)者のすることだからだ。

我慢ならないのなら、まずはひと声かけるべきだろう。「歩くときは前を向いてください。涙が出そうなときには立ち止まって上を見てください」と。

歩きスマホの人にはこう言っておきたい。「悪さをしようとする者にとって、これほど標的にしやすい対象はない」と。

ひと昔前、海外の混雑した観光地をデイパック姿で歩く日本人がよく盗難にあった。背後から獲物に近付いた犯人は、持ち主が気づかぬうちに鋭利な刃物でデイパックを切り裂き、中の物品を盗むのである。イザヤ・ベンダサン(山本七平)の言葉を思い出す。いまだに日本人は「水と安全はタダと思っている」ようだ。

国会議員も同じだ。北朝鮮がミサイルを繰り返し日本海に撃ち込んでいるいま、なすべきことは倒閣ではなく、安全保障についての議論と具体的な対応策の検討だろう。

米国のトランプ大統領が蛮行を繰り返す北の独裁者に「あの男は他にほかにすることがないのか」とツイッターでつぶやいたが、日本の国会議員に対してこうつぶやきたい。「あなた方は倒閣の他にすることがないのか」と。

こんなことを言うと、秘書いじめや不倫にいそしんだり、熱烈なファンのいるサッカーチームを非難するなどの場外乱闘で名を売ろうとする議員からは「他にちゃんとやっています」と反論されそうだが。

●「一九八四年」の世界が現実化?
話がとっちらかってきた。元に戻そう。歩きスマホも嫌だが、食事スマホには目を背けたくなる。歩きスマホと違い、衝突するなどの危険はないものの、食事の基本的なマナーがなし崩しになってゆくのを目の当たりにすると、文化の崩壊も間近と感じ、暗澹(あんたん)たる思いにとらわれてしまうのだ。そもそも料理を作ってくれた人に失礼と思わないのかしらん。マナーが崩れればそれを支える情緒も壊れてゆく。

某大学の正門前にある創業40年の中華料理店で、友人とこんな会話をかわしながらビールを飲んでいると、店主のじいさんは親近感を覚えたらしく、話に加わりこう漏らした。「ひとり客はほとんど、仲間と来た学生も半分は会話をすることなく、それぞれスマホを見ながら食ってるよ」。その口調には寂しさと諦観がにじんでいた。

家庭の話で恐縮だが、何を言っても聞く耳を持たぬ高校生の息子に、「オレの目の前でスマホをいじりながら飯を食うのは絶対に許さん」と断固たる口調でクギを刺し、これだけは守らせている。息子が腹の中でどう思っているかなど、知ったことではない。

ここまで縷々(るる)書いてきたが、人とスマホの風景を眺めていてもっとも危惧するのは、このままでは人はスマホの奴隷になるのではないか、ということだ。当人は自由意思によってスマホと付き合っているつもりだろう。最初はそうかもしれないが、さまざまなアプリを日常的に利用するうち、逆にアプリに使われるようになり、時間も奪われてゆく。

ラインやツイッターはやったことがないので何も語る資格はないが、パソコンでやっているフェイスブックなら少しは語れる。遊んでいるうちに、自分がアプリに操られていることに気がついたのだ。

「友達」のどうでもいい投稿写真や短文にも「いいね」をクリックし、自分の投稿にコメントが付けば忙しくとも必ず返信を書き、レストランでは投稿用の写真を撮ってから食べ始める…。ささいなことかもしれないが、こうした日常の細部から奴隷化は始まるのだ。

30年前の教養人がタイムスリップして電車の中に舞い降りたら、どんな感想を漏らすだろうか。ジョージ・オーウェルが描いた『一九八四年』の世界がついに現実のものとなった、と叫ぶに違いない。誰もがビッグ・ブラザー(全体主義国家オセアニアに君臨する独裁者)の命令を伝える機器を黙って眺め、その機器を通してビッグ・ブラザーに監視されている-と。

●習慣は強力で理性を眠らせる
人間は日常を習慣の奴隷として生きている。そして自分たちとは異なる習慣と出合うとそれを「野蛮」といってさげすむ。モンテーニュは習慣の陥穽(かんせい)にいち早く気づき、自覚的にそこから出てものごとを眺め、考えるようにした。

たとえば人を生きたまま焼き殺すのと、死んだ人間を食べるのとどちらが野蛮か、と問うのである。このようにして自己と自国(ヨーロッパ)文化を絶対化しない相対主義を育んでいく。

《まったく習慣というものは、本当に乱暴で陰険な女教師なのである。それはすこしずつ、そっと、我々のうちにその権力の根を植えつける。けれども、始めこそそんなに優しくつつましやかだが、一たび時の力をかりてそれを植えつけてしまうと、たちまちに怖ろしい・暴君のような・顔をあらわす。そうなると、我々はもう、目を上げてこれを見る自由すらなくしてしまう》(第1巻第23章「習慣のこと及びみだりに現行の法規をかえてはならないこと」)

モンテーニュは習慣の力をこのように表現し、それはわれわれの理性を眠らせ、しばしばわれわれを奴隷にしてしまうと記す。

もしかすると、私は旧来の習慣にとらわれたまま、新しい習慣を身につけた人々を「野蛮」とみなして批判しているのかもしれない。間違いなくそうなのだ。だからといって、新しい習慣をすんなり受け入れる気などさらさらない。モンテーニュはこうも言っている。

《それにしても賢者は習慣を尊重する》

彼は思考の相対主義を失うことなく、それまで社会を支えてきた習慣を尊重し、拙速な変化・改革を忌避するのである。

※モンテーニュの引用は全て関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』(国書刊行会)によった。=隔週掲載(産経新聞・文化部 桑原聡)

【平成29年 年末特別対談】西部邁氏に聞く[桜H29/12/29]