11.25三島由紀夫『憂国忌』 | 中谷良子の落書き帳

中谷良子の落書き帳

核武装・スパイ防止法の実現を

45回忌です。

三島由紀夫が市谷駐屯地で多くの自衛隊員を前に、自害をされたことの本質の意味を一体どのくらいの方々が理解していらっしゃるのでしょうか?

昨夜は報道ステーションで三島特集をしていたそうですが、案の定のオチだったようです。

彼こそが武士の生き方であり、彼の予言が見事に的中しているこの日本の現状を鑑みれば、これ以上、三島氏の見据えていた未来の日本像にさせてはならないと思います。

しかし現実は、集団的自衛権の可決によりアメリカの軍隊に成り下がり、自主憲法の制定さえも実現できない日本になってしまいました。

手遅れかもしれませんが、それでも今を生きる私達が、この日本を中身が空っぽの経済大国にさせてはなりません。

戦後の若い自衛隊員、今を生きる方々に、是非とも三島氏の最後の演説をお聴きいただきたいです。




★三島由紀夫のことば「信義」とは‏★

このごろの青年の時間のルーズなことには驚くほかはない。

また、約束を破ることの頻繁なことにもあきれるのほかない。

大体時間や約束というものは、それ自体ではたいした意味のないものである。

たとえば、三時に会う約束が三時半になっても、それで日本がひっくり返るわけではない。

また、金曜日の五時に会う約束を忘れてしまっても、それで日本の株式相場が一どきに下るわけでもない。

というのは、学生時代には自分が社会の歯車の一ヶになっているという意識がないから、かなり自分では重大だと思っている約束でも、それが社会を動かすようなモティーフにはならないからである。

こういう人間に限って、会社につとめたり、いっぱしの社会人になると、自分の社会における役割というものの重さに次第に目ざめ、と同時にそれを自分で過大評価して喜ぶようになる。

こうして窓口の役人タイプや、つまらない末端の仕事にいながら、やたら人にいばりつらす人間があらわれる。

そして学生時代に約束や時間を守らなかった人間ほど、かえって社会の歯車である自分に満足してしまう人間ができあがりがちなのである。

約束や時間というものは、それ自体が重要なのではない。

われわれがそれを守るのは、守らなければ世の中がひっくり返るから守るのではない。

もっとも軍人の世界は別であって、軍人が時間に正確なのは、初めから時間を守らなければ戦争に負けてしまうからであり、こちらが向かうの丘を占領するのに午後三時を予定しているとして、その午後三時という時間には、司令官がさまざまな情報を総合して、最適な時間ときめ、そこへ到達する部隊の歩度やら、人員や火力の配置を考えた上で、三時という時間がつくられているのであるから、その自分のつくった時間で敵を撃退することができなければ、ひょっとすると敵のつくった時間でこちらが撃滅されてしまうかもしれない。

命のかかった時間であるから、軍隊の時間は、はっきりした目的意識があって保たれているのである。しかし、軍隊ほど極端な例でなくても、実際社会も時間によって動いている。

約束に三十分おくれたから何千万円の契約をミスってしまったということも、社会での場合幾らでもあるし、また、ちょっとした時間の違いで、研究発表を相手方にとられてしまい、自分が長年にわたって完成した研究が、向こうに先手をうたれてしまうこともあるのである。

また、一つのものを何人かの人間がとろうという競争があるところでは、いつも時間の勝負になり、その時間の結果は、契約という、約束の中でもっともこうるさい、

『紙の上に書かれた約束』

に到達するようにできているのである。大体西洋では契約社会ということが言われて、紙の上の契約がすべてを規制している。

日本では契約がこうるさいのは、借家人の契約や、アパートの賃貸契約だけであるが、同じ本を出すのにも、私どもと日本の出版社との約束は口約束で済むものが、アメリカでは何ページにもわたってアリのような細かい活字を連ねた煩瑣な契約書が、起こりうるあらゆる危険、あらゆる裏切り、あらゆる背信行為を予定して書きとめられている。

そもそも契約書がいらないような社会は天国なのである。
契約書は人を疑い、人間を悪人と規定するところから生まれてくる。

そして相手の人間に考えられるところのあらゆる悪の可能性を初めから約束によって封じて、しかしその約束の範囲内ならば、どんな悪いことも許されるというのは、契約や法律の本音である。

ところが別の考え方もあるので、ほんとうの近代的な契約社会は、何も紙をとりかわさなくても、お互いの応諾の意思が発表された時期に契約が成立するのだという学説もあるくらいである。

すなわち、契約社会の理想は、何も紙をとりかわさなくても人間が契約を守るという根本精神が行きわたれば、それだけで安全に運行してゆくのであるが、そんなりっぱな人間ばかりでないところからむずかしい問題が生ずるわけである。

しかし、私がここで言いたいのは、これほど社会的に重要であり、社会生活を規制する根本のものが時間であり、約束であるから、したがってわれわれはそれを守らなければいけないという功利主義から言っているのではない。

会社ではタイムスイッチを押す、押さないで毎月末の勤務評定から、年末のボーナスまで響いてくるが、出勤時間と約束との一番功利的な、一番生活に響く形がそういうところにあらわれている。

したがって守るというのは、実は約束の精神ではないのである。

私が言いたいのは信義の問題だ。

本来時間はそれ自体無意味なものであり、約束もそれ自体はかないものであればこそ、そこに人間の信義がかけられるのである。

一旦約束を結んだ相手は、それが総理大臣であろうと、乞食であろうと、約束に軽重があるべきではない。それはこちら側の信義の問題だからだ。

上田秋成の『菊花の約』という小説は、非常に信じあった友人が、長年の約束を守るために、どうしても約束の場所、約束の時間に行くために、人間の肉体ではもう間にあわなくなって自殺をして、魂でもって友人のところにあらわれるという人間の信義の美しさを描いた物語である。

その約束自体は、単なる友情と信義の問題であって、それによってどちらが一文も得をするわけではない。

その一文も得するわけでもないものに命をかけるということは、ばからしいようであるが、約束の本質は、私は契約社会の近代精神の中にではなく、人間の信義の中にあるというのが根本的な考えである。

一人一人の人生にとって、時間というものは二度と繰り返せぬものである。

昭和四十三年の六月の何日という日は、人類の歴史にとって二度とない日であると同時に、その人個人にとっては、またその一瞬一瞬は二度と繰り返されぬ日であり、時間である。

そしてその一日のある時間に、たとえば、もっともくだらない約束、一緒にパチンコしに行こうとか、一緒にゴーゴーを踊りに行こうかというときに待ち合わせる約束には、実は千金の重みがかかっていると考えてよい。

その時間の重みと、いま遊ばなければという緊迫感に気がつくのは、実は青春を過ぎてからである、ということが悲しいのである。

私は「熊野」という芝居の中で書いたことがあるが、ことしの花見に無理やりに美しい二号をさそって行く実業家は、その二号のお母さんが大病だというので悲しんでいる彼女を、引き立てるようにして無理やり花見に連れて行くのであるが、彼の考えによれば、ことしの花は二度と繰り返されない。

それは人生のある時期の絶頂における花見であって、そこでこそ彼女の美しさが最高に発揮される。そのときは、母親の病気などものの数ではないという快楽主義の主張が込められている。

約束や信義は、実は快楽主義のためにさえ守らなければならないのである。

なぜなら快楽は島の影のようもので、一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさってしまうからである。

しかし、快楽のための約束として、もっとも普通な形がすなわち異性とのデートである。

デートは、快楽のための約束にもかかわらず、その快楽を刺激し、じらせ、かえって高めるための技巧として、お互いにちょっと時間をずらして、わざと約束の時間に来なかったり、あるいは約束におくれてみせたりするローマのオヴィディウス以来の愛のさまざまなウソの技巧が使われる。

しかしそれでさえも信義の上にあるのが本当だというのは、私の考えであって、私は昔から約束を守らない女性は、どんなに美人であっても嫌いである。

なぜなら私の考えでは、どんな快楽も信義の上に成り立っているという考えだからである。


https://www.youtube.com/watch?v=NTER8uekl_U


https://www.youtube.com/watch?v=Ndns26mQfhA


https://www.youtube.com/watch?v=YlalVNTm2S4