2月7日の北方領土の日も忘れないで | 中谷良子の落書き帳

中谷良子の落書き帳

核武装・スパイ防止法の実現を

北方領土の日、竹島の日、毎年活動を行ってまいりましたが、沖縄遠征以降、喉の調子が大変悪くなっており、検査をしようかと思っており、2月は、島根遠征、シーシェパードに関する調査、3月にも1カ月間の活動を控えているため、自身の行事ごとを自粛しようと思っています。

今年はロシアが北方領土を不法占拠して70年の節目だそうです。

ロシアは二島返還をちらつかせていましたが、ウクライナ紛争により、現段階ではアメリカが、ロシアのG8からの追放、経済制裁により、日本だけがロシアと仲良くするわけにもいかなくなってきたため、頓挫している状態で、また振り出しに戻ってます。

北方領土に住んでるロシア人は、ビザなし交流など日本人を敵視されている方々はいないそうです。

しかし現地の択捉島にある日本人墓地は、茂みに覆われ、土に埋もれ、日本の痕跡がどんどんなくなっており、ご遺族の数も極端に少なくなり、手が回らないといった状態です。

ロシア人墓地の柵の土台にされたお墓に眠る日本人の霊も寂しい思いをされていることと思います。

産経新聞はロシアを敵視する記事を書いてますが、北方領土は、領土問題が存在していることを、日ロ両国が認め合ってるので、話し合いで解決できる可能性がある唯一の係争地だといえます。

故郷への帰郷を求めている元島民の方々もご高齢になっているので、政府には早急な解決を求めたいと思いますし、守るべきものを守るという姿勢・態度が領土問題が存在する各国へのメッセージになります。

日本は北方領土、竹島、尖閣諸島だけではなく、南鳥島、沖ノ鳥島という島々にも支那の脅威が迫っていることも忘れないでいただきたいです。

このような記事を毎年毎年、書かなくてもいいような時代が到来することを政府に強く望みます。




↓↓以下情報↓↓

北方領土問題って何?

北方領土とは、北海道の東北海上に浮かぶ

国後島(くなしり)
色丹島(しこたん)
歯舞島(はぼまい)
択捉島(えとろふ)


を指している。
日本では北方領土として言及される。

北海道に一番近いのは歯舞島で、根室半島の納沙布(のさっぷ)岬の沖合い3.7kmに位置する。
歯舞島を構成するのは、貝殻(かいがら)島、水晶島、秋勇留(あきゆり)島、勇留島(ゆりとう)、志発島(しぼつとう)、多楽島(たらくとう)などである。

感覚的には北海道の根室から目と鼻の先であり、2002(平成14)年に国後島を訪問した筆者の経験によれば、同行の友人はドコモの携帯で普通に日本と通話していた。

★沖縄本島よりも広く、豊富な漁場の北方領土★

これら北方領土の中で面積が最も広いのは、地図でもわかるように択捉島の3,184k㎡、そして国後島の1,498.8㎡、色丹島の253.3k㎡、歯舞群島志発島の59.5k㎡になり、北方領土の総面積は5,036k㎡になる。

これは沖縄県(諸島)の面積2,276k㎡の2倍以上である。
豊かな自然が残されており、火山島である国後島と択捉島には温泉もある。

また北方領土の周辺の海域で、親湖の千島海流と黒潮の日本海流がぶつかり、タラバカニ、花咲カニ、サケ、マス、エビ、ニシン、昆布、スケソウダラなどの豊かな、世界でも有数な漁場を形成している。

★1945年のソ連軍による占領以降実効支配が続く北方領土★

北方四島は、1945(昭和20)年にソ連軍によって占領された。
その後北方領土で生活していた日本人は、財産を没収され追放された。

その総数は17000名以上であったと推測されている。
日本はこの四島が、自国の領土として返還を求め続けている。

しかし、ソ連は同意しなかった。
そして、1991(平成3)年、ソ連が崩壊してロシアとなった現在もその状態が続いている。


この領土問題が、日露関係の発展を阻害している。

★北方領土の歴史★


そもそもこの地域は、アイヌと呼ばれる先住の人々の生活空間であった。

当時、蝦夷地(えぞち)と呼ばれた北海道を松前藩が統治するようになったのは、1600(慶長5~)年代の初めであった。

松前藩は先住の人たちと交易を行っていた。
同藩の記録によれば、先住民からラッコの毛皮が贈られたので、藩主はそれを幕府に献上している。

1618(元和4)年に北海道にやってきたキリスト教の宣教師がローマに送った報告書によれば、

「アイヌが毎年100隻もの交易船でやって来るが、交易品の中にはラッコの毛皮が入っている」とある。

松前藩は、米、酒、タバコ、ウルシ製品、鉄製品などを交換品として、毛皮や海産物などを入手していた。

そして1754(宝暦4)年には松前藩は、国後島に交易のための施設を開いた。
松前藩は、この地域を調査し、1635(寛永12)年に現在の北方領土を含む地図を作成している。

また、1644(正保元)年にも江戸幕府が北方領土の島々を明記した地図を作成している。

ちなみにロシア人が、この地域の地図を最初に作成したのは、松前藩の地図より100年以上も遅い1739(元文4)年であった。

さらに松前藩は、1790(寛政2)年に南樺太(みなみからふと)(サハリン)に根拠地を建設した。

★江戸幕府が19世紀初めには北方四島を実効支配していた★

松前藩の影響力が北上すると、ロシアの勢力と接触することになった。

ロシアの影響力の南下を意識し、幕府は1785(天明5)年に調査団を送り、国後島、択捉島などの地図を作った。

また、1798(寛政10)年に択捉島に「大日本恵登呂府」の標識を立てた。

そして1799(寛政11)年には、この地域を幕府の直轄地とし、役人を常駐させたり、百名単位の守備隊を置いたりした。

守備隊を提供したのは津軽藩と南部藩だった。
また、この頃に日本人が、この海域に航路を開いたり、漁場を開拓したりした。

つまり日本は、ロシアに先んじては北方領土を発見し、調査し、開拓し、遅くとも19世紀初めには、四島の実効的支配を確立していた。

【ロシア】「四島のロシア支配は第2次大戦の結果」「北方領土と通好条約は無関係」…安倍首相の7日の返還要求牽制、ロシア外務省

【北方四島を返せ】2月7日は「北方領土の日」 2月は「北方領土返還運動全国強調月間」



★【西村眞悟】日本人の無防備性、テロリズムと国体に対して★

今回は西村眞悟衆議院議員から、イスラエル大使から聞­いた、アルジェリアテロ事件における日本人の無防備性と、歴史への無防備性を表してる、仁徳天皇陵での工事の問題についてお話しいただきます。



★【菅原出】「イスラム国」のターゲットになった日本★

国際政治アナリストの菅原出氏をお迎えし、人質二人が殺害されるという惨事に至った「­イスラム国」による日本人拘束・脅迫事件をどのようにご覧になるか、“恐喝屋”という­「イスラム国」の本質や思考、数度に亘って発せられた声明において見られた公式ロゴの­有無などの差異や、要求の変遷の理由、そして、名指しで脅迫を受けた我々日本人が冷静­に認識すべきことなどについて、お話を伺います。



★日本の現実的な脅威は、ISILより中国である★

日本人が惨殺され、テロ攻撃のターゲットとされたことで警戒が高まっているISILで­あるが、実際の問題として、日本人により大きく、差し迫った安全保障問題と言えば、中­国共産党の拡張主義に他ならない。国民とメディアの注目がISILに集中している間に­も、外交面で着々と布石を打つ中国の動向や、事件に便乗したウイグル弾圧の強化、国防­と危機管理を混乱させるメディアのミスリードなどについて指摘していきます。