そして如何に私たちの祖先が素晴らしい日本人であったかも知ることができます。

『シンガポール』
ゴー・チョクトン(第二代首相)
日本軍の緒戦の勝利により、欧米アジア支配は粉砕され、アジア人は自分たちも欧米人に負けないという自信をもった。
日本の敗戦後15年以内に、アジアの植民地は全て解放された。
(1992年2月11日の国立博物館戦争展の開会式にて)

『インドネシア』
スカルノ(初代大統領)
インドネシアと日本は一心同体である。
日本軍の援助がなければ、永久にインドネシアは独立できない。
スハルト(第二代大統領)
日本語の勉強を始めてまもなく署長から日本軍が組織し始めた現地人軍隊、郷土防衛軍(PETA)への入隊を勧められた。
500人の応募者の中から私ともう一人が選ばれ、訓練の施設のあるボゴールに送られた。
PETAでの訓練は想像を絶していた。
朝5時半から夜遅くまで軍事教練、理論、精神教育が続き、最前線の司令官となる小団長(小隊長)には特に厳しかった。
仲間の一人がたるんでいると全員が夜中まで正座をさせられた。
相撲もやった。
5回勝つまでやめられず、華奢だった私はつらい思いをした。
「駆けろ、駆けろ」朝の走行訓練での指導官の掛け声は耳に残っている。
私が当時を語る時の用語はいまだに日本語である。
PETAでたたき込まれた闘争精神、愛国精神抜きには、我々は再植民地化のため攻めてきたオランダを撃退できなかったと私は思う。
その意味で日本軍に感謝している。

スシロ・バンバン・ユドヨノ(第六代大統領)
「日本軍の侵攻がわがインドネシアの独立につながった」

モハマッド・ハッタ(初代副大統領)
1944年9月の初め、東条に代わった小磯首相の、インドネシアは「後日必ず」独立させる、という言葉が放送された。
この言葉にインドネシア全土が歓喜したと言ってよい。
ジャカルタではこの声明に感謝する大会が開かれた。
小磯首相の発表と並行して、ジャワでは多くの変化があった。
国歌インドネシア・ラヤを再び歌うことが許可された。
紅白旗は日の丸と一緒に掲揚が許された。
1944年12月には、数人のインドネシア人が各部の参与になった。
彼らは各部の次官と見なされた。
この地位は、将来インドネシアが独立した時、大臣になるための訓練をしておくため設けられたものだ。
アダム・マリク(第三代副大統領)
(オランダの降伏は)東インドにおけるオランダ帝国の終りであった。
バタビアから植民地全体を支配していた時のオランダ人は誇らしげで尊大で冷酷であったが、この同じ人間がチラチャップのごみの中に這いつくばって日本刀の前で許しを乞うていた。
これを見た私の胸中に、思い出として東インドにおけるオランダ帝国の崩壊がやきついた。
日本軍占領当時、この書物の著者(著者注:アフマッド・スパルジョ)の指導のもとに、予想されたあらゆる事態に対処すべく青年を鍛錬するための青年塾が育成されたが、その主たる目的は、青年たちに新しい時代、つまり独立時代の到来に備えさせることにあった。
著者のこの仕事は、インドネシアの独立運動に同情し、協力してくれた日本人、たとえば西嶋重忠氏、前田精海軍少将、故吉住留五郎氏などから、誠意ある、建設的かつ小さからぬ意味をもつ援助を得たのであり、その名前を忘れることはできない。
この3人の方たちは、引き続きインドネシアの独立準備に協力し、独立宣言を迎えるにいたったのである。

アラムシャ将軍(第三副首相)
我々インドネシア人は、オランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの狡智なスパイ網と強靭な武力と苛酷な法律によって圧倒され、壊滅されてしまった。
それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。
インドネシア人が歓喜雀躍し、感謝感激したのは当然である。
日本軍がインドネシアに来る数年前より、現在の国家『インドネシア・ラヤ』が、東京からラジオ放送で流されていました。
我々は、もちろん、独立を願っていたので、日本軍がインドネシアに上陸して来たときは、熱狂的に迎えました。
我々は、日本軍の協力があれば実現できると確信したからです。

アフマッド・スパルジョ(外務大臣・サンフランシスコ講和会議首席代表)
私は、アジアでは日本人だけがインドネシア人民をオランダの植民地支配から解放することのできる勢力だと考えていた。
インドネシアの民族運動と日本のアジア主義運動のあいだには、インドネシア人民がオランダ植民地から離脱することを容易にする共通点があったのである。
すでに述べたとおり、日本軍占領当時、私が海軍で体験した出来事は、私の観測がまちがいではなかったことを示した。
すなわち、海軍のなかに、日本の理想主義者がいたために、インドネシアの独立宣言は実現したのである。
インドネシア、とくにジャワに勤務した当時、大きな役割を果たした海軍の指導者、たとえば柴田中将、前田少将、そのスタッフである西嶋、住吉、佐藤などの諸氏が、遠い将来を見通して、日本とインドネシアの末長い友好関係を打ちたてるべく、基礎を築いた功績に対し、日本政府は、少なくとも十分な関心を払うべきである。
ルスラン・アブドルガニ(外務大臣)
日本はヨーロッパに対抗できる、唯一植民地化されなかったアジアの国である、とスカルノとハッタは言った。
日露戦争で日本が勝利した知らせが来たとき、アジア人すべてが喜んだ。
アジア人も白人に対抗できるという気概がわいてきたのだ。
私は小さい頃、母親からジョヨボヨの伝説(インドネシアは長いこと白人に支配されるだろうが、北から黄色い皮膚の人が助けに来て、トウモロコシの実がなるころに去っていく。そうしたらインドネシアは独立する、という予言的伝説)を聞かされた。
だから、日本が来たとき、私たちはトウモロコシを植えたものだ。
日本軍政時代について多くの人がその軍政の悪さを批判している。
日本軍政批判は、日本がインドネシアにいる間に2つの良いことをやったという事実を忘れている。
第一は、日本がインドネシア人に軍事教育を施したこと、第二は、官史の養成のために学校をつくって教育してくれたことだ。
そして、「セイシン」(精神=ファイティング・スピリット)を吹き込んでくれた。
これらは偉大な成果を収めた。
ブン・トモ(情報・宣伝相)
日本は明治以来70年間に蓄えた財産と、教育した人材のすべてを投げうって、大東亜戦争を敢行した。
この戦争は我々の独立戦争だから、我々が主力で、日本軍は補助勢力であって然るべきだ。
だから、我々の主力陣営から100、200万人の戦死者が出るのは覚悟の上だ。
けれども日本は、“おれがやる”と頑張った。
なぜ“一緒にやろう”と言わないのだ。
まことに水臭い。
日本の孤立頑迷体質、単騎独行気質は今の日本の外交によく出ている。
こんな根性では、経済には成功しても、政治には失敗する。
経済の失敗は小さな損失。
だが、政治の失敗は大きな失敗になる。
それにしても日本は、戦後処理が下手糞である。
為すべきことを為していない。
日本の失敗は、たった一度の敗戦でアジア・アフリカ解放の志を捨てたことだ。
それに比べるとドイツは、敗戦慣れしているから、憲法は譲らなかった。
日本は譲った。
それがバカだ。
私は日本に切望したい。
『アジア・アフリカの有色人種が欧米白人種並みの自由と繁栄を獲得するまで、日本には使命がある。どうか指導援助を続けてくれ』
(昭和32年に来日したブン・トモ情報相の、岸信介氏への発言)
サンバス将軍(東欧大使・復員軍人省長官)
今、インドネシアでもその他の国でも、大東亜戦争で日本の憲兵が弾圧したとか、労務省を酷使したとか言っているが、そんなことは小さなことだ。
いかなる戦場でも起こり得るし、何千年前もそうだったし、今後もそうだ。
日本軍がやったもっとも大きな貢献は、我々の独立心をかきたててくれたことだ。
そして厳しい訓練を課したことは、オランダのできないことだ。
日本人はインドネシア人と同じように苦労し、同じように汗を流し、“独立とは何か”を教えてくれたことだ。
これはいかに感謝しても感謝しすぎることはない。
このことはペタ(ジャワ防衛義勇軍)の訓練を受けた者は、一様に感じていることだ。
特に、インドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダ軍と戦い、独立に貢献してくれたことである。
日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。

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