めんどうくさいのルーツ
度々頭を悩ますこの「めんどうくさい」という感覚。
元々、意のままに動きたいタイプだったから、突発的にとった行動に理由なんてない。しかし、周りは行動の背景にある理由を問う。
なぜそうしたのか?
なぜあんなことをしたのか?
あなたの行動の源泉は?
ようやく分かった。自分にとっては、この質問への回答が「めんどうくさい」のだ。
そして、この「めんどうくさい」と言う感覚につきまとう虚無感にしばしばどっぷり浸かることがあったように思う。
この「めんどくさい」の克服の仕方については、それこそ意味や理由、そして大義名分をとにかく探した。
探すためには徹底的に行動するしかいない。
多方に関係も作り、自分は一体何なのか。
何が得意で、どんなことに惹かれてなどを客観視した。
大義名分を見つけたつもりになっても、思うようにこの「めんどくさい」をコントロール出来なかった。
意思薄弱とさえ思った。
しかし、折りをみて振り返ると、確実に昔の自分よりは出来ることも増え、考えることも出来るようになっている。
一体全体自分はどこに向かっているのか。
よく分からない。
と言うより、これは分かるものなのか。
ここに幼き日の私が出てくる。
要は行動に対する理由を問われると言うことから「めんどくささ」が生じたわけだから、やはり自分としては自分自身の行動の背景を分かりたいのだろうと思う。
それは同時に、実は「分かってもらいたい」という幼心にもつながる。
何も言わずに分かってくれる。
これを相手に期待するのは間違いだ。
ならば、私自身がそうなれば良いではないか。
どんな芸術品でも美術品でも芸能でも、はたまた日常的な会話でもそうだが、相手がどう受けるかはどこまで言っても全てをコントロールすることは不可能だ。
「嫌われたくない」「気に入られたい」もよくよく考えれば相手のリアクションをコントロールしたいと言うことだ。
無理である。
だから、私自身がどんなに偉そうなおじさんになったとしても、それを相手がどう受け取るかは分からない。
最低限、目一杯の自分を表現できること。
これは精神的な深掘りではなく、日常的な生活内での試行錯誤の末に作られるもの。
要は生き様。
言葉ではなく、身で語っていくものである。
自分自身について考えるのはしばらくやめます。
何かしら作られたものが、自分である。