田母神は善意に対して本当は見返りを求めていた、優里が恩を仇で返した、人間恐ろしい、という感情を誘導するような描かれ方であったと感じたが、穿った見方をすれば、以下のように考えられる。
この映画は、奉仕は存在するのか、というテーマであると解釈した。結論としては、見返りを要求するでもなく、無私の労働を行うこと、という意味での奉仕は存在しないのだと思った。
相手に迷惑をかけるような自己中心的な振る舞いも、相手の心情に寄り添って気を使う振る舞いも、全ては自分のためなのだと思う。相手にこうなって欲しい、という一見奉仕的な欲求も、根本的には自分の理想に基づいているという考え方である。自らの働きかけの動機を、相手への影響と切り離して思考することは不可能であり、結果的にどの行動を選択しようとも、それは自らの欲求に内包されたものに過ぎないのだと考えている。
では、奉仕でない人間の行動が全て不健全なものであるかと言えば、当然そうでない。
そもそもとして、人間が進化の過程(有力な進化論としては、進化は環境適応による結果的な生き残りだとされているが)により、このような欲求を獲得した背景には、社会的な生物としての合理的な要因があるのだと思うし、それが状況が目まぐるしく変化し得る現代社会において有効であるかはさておき、過程はどうであれ、感情や感覚に直接的に作用するそれらの欲求は、適切な制御によって、人々がより幸福になる方向へ用いられるべきであると考えている。
話が逸れかけたが、田母神は優里に対する善意の行動によって、優里が目先の利益や欲求に溺れずに、自らの表現の欲求や他人の幸福に対する欲求を満たすことに誠実であり続けて欲しいと感じており、それが田母神にとっての見返りであったのだと思った。

























