風習


・官家の城郭を築く時に、健康な少年を使う。


韓は城郭は無いとあったが、これはどういうことであろうか?官家が何かはわからない。


・皆背中の皮に穴を開け、大縄をその穴に通し、一丈ばかりの木を鋤に通して、一日騒がしく呼び会い、力仕事で作る。痛みがないのを、作り進めてかつ健康とした。


あまり想像できない光景である。痛みがあるだろうに、痛くないのを健康としていたとは我慢をしていたということであろうか。


祭り

・常に五月下旬に種をまき終わり、鬼神を祭って、皆で昼夜無休で歌舞し飲酒する。その舞は数十人が共に起って互いに沿って地を踏んで、手足を低く高くして互いに応える。鐸舞に似た節や演奏がある。

・十月の農作業が終わったら、亦、五月の祭りのようにする。

・鬼神を信じており、国邑各々一人が天神の主祭に立つ、この名を天君という。

・又諸国、各々別邑が有る。この名を蘇塗という。大木を立てて、鈴、鼓をかけて、鬼神に仕える。諸国の亡人が逃げて蘇塗の中に至ると、皆還さない。好んで賊を作っている。

・蘇塗を立てる意義は、仏教に似ているようである。ただ善悪の行いに異なっている所がある。


夫餘、高句麗等と同様に、昼夜無休で歌舞し飲酒します。舞いの仕方は違いますが。あと特徴的なのは鐸舞に似た節や演奏があるというところでしょうか。祭りは種まきと収穫の時期2回行われています。

各国々「天君」という、天神の主祭に立つ人がいる。各国に「蘇塗」という別の集落が有り、大木を立てて、鈴、鼓をかけて、鬼神に仕える。鬼神とは韓の人々があがめている神のことで、鬼の神ということではありません。蛮夷の信じている物に対しては鬼を付けます。「鬼神」、「鬼道」など。

治外法権のようなところでしょうか?亡命人(おそらく犯罪者も含まれていたと思いますが)を受け入れて、官吏には渡さない。そういった人が中で徒党を組んで、賊のようなことをしている。

江戸時代の縁切り寺みたいに、手が出せないといった状況でしょうか。善悪の行いに仏教と異なっている所があるという点がどういった所か気になります。


特産物

・大栗を産出し、大きいのは梨くらいある。

・尾長鶏(尾の長さ五尺余り)


韓の男子は時々文身している者がいるとも記載があります。倭人との関連があったのかも知れません。または倭の分野に行かず、韓に残った人々の子孫の可能性もあります。


馬韓の西の島について書かれています。一つは名前だけですが、「大島」。その上にあるのが「州胡」です。そこに住んでいる人は、背が小さく、言葉は韓とは違い、鮮卑のような髪型をしている。なめし皮を使った服を着ている。上着だけで、ズボンなどの下の服は着ていない。褌のような下着だけということでしょうか?船を使って中国、馬韓の間で商売をするため往来をしている。

州胡は済州島と言われていますが、馬韓から見ると南になります。また、大島に比定できる島がありません。ですから、黄海上の徳積群島から巨次群島の間の島々のどれかでは無いかと思います。

民族的には鮮卑と同じなのでしょうか?それにしては、背が小さいとありますから髪型だけが似ていただけでしょうか。何か、南方系の民族な感じがします。




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漢末以降のことについて記載があります。


・桓帝~霊帝(146~189年)の末韓と濊は勢力を増し、郡と県は制御できなくなってきた。


桓帝と霊帝の時代には宦官と外戚、豪族との争いがしばしば起こっていた時代です。中央で争いが起こると、辺境は不穏になります。不安になった民が、朝鮮半島に難民が流入するのは昔からの繰り返しです。


・建安中(196~220年)に公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とした。公孫模、張敞等を遣わし、漢人を集めて、兵を興して韓と濊を征伐した。旧民は次第に出ていき、この後倭と韓は遂に帯方郡に属した。


建安4年(204年)に帯方郡が設置されます。屯有県は現在の黄海北道黄州のあたりと言われています。同時に公孫模、張敞等で周囲の韓と濊を征伐しました。この後倭と韓は帯方郡に属したとあります。濊ではなく倭が属したあるのは、濊との書き間違いなのか、それとも隣国韓が征伐されたので、畏れて属したのか。どちらかでしょう。この時期の倭は卑弥呼かその前の男王の時代でしょうか。

建安中に高句麗も公孫康に打ち破られていますから、遼東、楽浪、帯方郡周辺の国々は公孫氏に服属したことがわかります。


・景初中(237~239年)に明帝密かに帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣を遣わして、海を越えて二郡を平定した。


燕王・公孫淵を司馬懿が攻撃する際に、背後を抑えるのと東夷の国々と分断するため、海から攻めて楽浪郡、帯方郡を平定します。おそらく山東半島あたりから出兵したのでしょう。

韓の諸国の臣智には邑君印綬を、その次の位の官人には邑長印綬を与えたとあるので、韓は魏に服属したのでしょう。


・部従事・呉林が辰韓八国を分割し、楽浪郡に編入した。通訳が、転々として上手く伝わらなかった。臣智は激し、韓は怒って、帯方郡の崎離営を攻撃した。時の帯方太守弓遵、楽浪太守劉茂は兵を興して韓を征伐した。弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅した。


部従事は州刺史の下に置かれた部下の官職の一つです。かなり高位です。楽浪郡、帯方郡は幽州の所属だから、呉林は幽州の部従事だったのでしょう。現場のことがわからずに、地図上で決定してしまったのでしょうか。通訳が上手く伝わらず、韓の反乱が起き、帯方郡の崎離営が攻撃されます。帯方太守弓遵が戦死するほどの激しい戦いの後、韓を屈服させたようです。

時代は何時でしょうか?実は倭人伝に帯方太守の記載があります。

正始元年に帯方太守弓遵が倭国に使者を派遣しています。正始八年に太守が王頎になっているので、正始六~八年あたりの出来事かと思われます。


習俗

・衣幘を好み、帯方郡に詣った時に借りたりする場合もあるが、自分たちで用意する人達もいる

・瓔珠を宝として、衣に綴って飾りにしたり、首にかけたり、耳に付けて垂らしたらしたりして、金銀、錦繡を珍重しなかった。

・綱紀は少なく、王はあまり民を制御しきれていない。

・跪拝の礼は無い

・住居は、屋根は草、部屋は土で作り、形は冡(おおうという意味)のようである。その戸は上にあって、家を挙げて共に中に住んでいる。長幼、男女の別は無い。

・馬、牛に乗ることを知らない

・素頭に何もかぶらず、炅兵のようである。衣は布袍を着て、足は革の蹻蹋を履く。


衣服を重視する民族のようです。金銀や刺繍なんかよりも、瓔珠を服に付けたり、装飾品にするのを好んでます。

多民族が雑居しているからなのか、王の力は余り強くないようです。跪拝の礼は無いとのことで、扶餘や高句麗とは違います。

住居は屋根は草(茅葺き屋根みたいなものか?)、土壁で部屋を作っていて、形はお椀型のようである。扉は上にあると言うことは、地下に掘り下げて、屋根は地表に近いように作っているのでは無いかと思われる。一族で住んでいるようで、座り方に長幼、男女の別は無いようです。

炅兵とはよくわかりません。当時の人だとわかった表現でしょう。兜をかぶらなかった兵という意味でしょうか。


葬儀

・棺は有るが槨は無い。

・牛馬は死を送る時に尽くしてしまう。


葬儀の時は、高句麗のように牛や馬を焼くのだろうか?


性格

・強く勇敢




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魏略の引用で箕氏朝鮮からの歴史が記載されています。


紀元前323年・・・燕、王を自称する。朝鮮侯・見も王を称する


紀元前?年・・・燕の将軍秦開に攻めこまれ二千里余りの領土を奪われ、満潘汗を国境に定めた


紀元前221年・・・秦が中国を統一。蒙恬に長城を遼東まで築かせた。後に朝鮮王・否は秦に服属した


紀元前180年前後・・・朝鮮王・否が死去。子の準(准)が王となる


紀元前209年・・・陳勝、呉広の乱が起こる。項羽、造反軍に参加。燕、斉、趙の民は戦乱を避けるため朝鮮へ亡命した。亡命者を西域(遼東に近い所)に居住させる


紀元前202年・・・盧綰、燕王に任じられる。朝鮮と燕の境界は溴水になる


紀元前195年・・・盧綰、反乱を起こし匈奴へ逃げ込む。衛満、朝鮮に亡命。


紀元前194年・・・衛満、挙兵し、朝鮮王・準を追放。衛氏朝鮮を建国。準は宮人を率いて海の逃れ、韓地に入って韓王を自称した。


紀元前109年以前・・・朝鮮の相・曆谿卿は王・右渠を諫めたが、耳を貸さなかったので、東の辰国へ亡命した


紀元前108年・・・漢の攻撃により、衛氏朝鮮滅亡。楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡を置く。これ以降に韓は楽浪郡に服属し、四季折々に訪問していた。


20~23年・・・辰韓、右渠帥の廉斯鑡は楽浪郡に亡命しようとする。途中漢人の戸来を発見し、共に連れて行く。その時に連れ去られていた漢人返還交渉の功績により、褒美が与えられる。


隣接する燕地の動乱によって、朝鮮(朝鮮半島北部)には多くの難民が流入しています。元々住んでいた人のところに、中国人が来て、雑居している状態でしょうか。もしくは準王のように西域に住まわせたのか。もちろん、南下して韓や倭の領域に移動した人もいるでしょう。


戸来の逸話を見てみると、韓の人達で、楽浪郡まで行って人さらいをして奴碑にしていた者がいることがわかります。その代わり、辰韓と弁韓は高い代償を払うことになりましたが。



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地理

・帯方郡の南にあって、東西は海を境界として、南は倭と接している

・面積は方四千里ばかりである

・馬韓、辰韓、弁韓の三種類がある

・辰韓は昔の辰国である。馬韓は西にある


南は海ではなく、倭と接しているということで、朝鮮半島南部は倭だったことがわかります。

このような感じでしょうか。


その後55カ国の名前が羅列して書いてあります。どういう順序で書いてあるのか法則はわかりません。

大国は万余家、小国は数千家で韓全体は十万余戸。

辰王は月支国で治めているとあるので、辰国からの流れで辰王が中心のゆるやかな連合国家みたいな感じでしょうか。


民、官職

・馬韓の民は土着しており、農耕や養蚕をしていた。

・散らばって住んでいる

・城郭は無い

・各邑には長帥がいて、大者は自ら臣智、その次は邑借と名乗っている。

・臣智は加えて、優呼臣、雲遣支、報安邪、踧支濆臣、離兒不例、拘邪秦支廉を号することがあった。

・官には、魏率善、邑君、帰義侯、中郎将、都尉、伯長がある。


臣智が号するものについては、区切りがいまいちわかりません。

官職は中国に倣っているようです。帰義侯は烏丸、鮮卑の大人がよく与えられている称号です。



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【原文】

桓靈之末韓濊彊盛郡縣不能制民多流入韓國建安中公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡遣公孫模張敞等收集遺民興兵伐韓濊舊民稍出是後倭韓遂屬帶方景初中明帝密遣帶方太守劉昕樂浪太守鮮于嗣越海定二郡諸韓國臣智加賜邑君印綬其次與邑長其俗好衣幘下戶詣郡朝謁皆假衣幘自服印綬衣幘千有餘人部從事吳林以樂浪本統韓國分割辰韓八國以與樂浪吏譯轉有異同臣智激韓忿攻帶方郡崎離營時太守弓遵樂浪太守劉茂興兵伐之遵戰死二郡遂滅韓其俗少綱紀國邑雖有主帥邑落雜居不能善相制御無跪拜之禮居處作草屋土室形如冡其戶在上舉家共在中無長幼男女之別其葬有棺無槨不知乘牛馬牛馬盡於送死以瓔珠爲財寶或以綴衣爲飾或以縣頸垂耳不以金銀錦繡爲珍其人性強勇魁頭露紒如炅兵衣布袍足履革蹻蹋其國中有所爲及官家使築城郭諸年少勇健者皆鑿脊皮以大繩貫之又以丈許木鍤之通日嚾呼作力不以爲痛既以勸作且以爲健常以五月下種訖祭鬼神羣聚歌舞飲酒晝夜無休其舞數十人俱起相隨踏地低昂手足相應節奏有似鐸舞十月農功畢亦復如之信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君又諸國各有別邑名之爲蘇塗立大木縣鈴鼓事鬼神諸亡逃至其中皆不還之好作賊其立蘇塗之義有似浮屠而所行善惡有異其北方近郡諸國差曉禮俗其遠處直如囚徒奴婢相聚無他珍寶禽獸草木略與中國同出大栗大如棃又出細尾雞其尾皆長五尺餘其男子時時有文身又有州胡在馬韓之西海中大島上其人差短小言語不與韓同皆髠頭如鮮卑但衣韋好養牛及豬其衣有上無下略如裸勢乘船往來巿買中韓


【書き下し文】

桓靈の末、韓濊彊盛し郡縣能く制さず。民多く韓國に流入す。建安中、公孫康、屯有縣以南の荒地を分け帶方郡と爲し、公孫模、張敞等を遣わし、遺民を收集し、兵を興し韓濊を伐す。舊民稍に出、是の後倭、韓、遂に帶方に屬す。景初中、明帝密かに帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣を遣わし、海を越え、二郡を定め、諸韓國の臣智、邑君印綬を加えて賜う。其の次、邑長與う。

其の俗、衣幘を好み、下戶郡に詣り朝謁す、皆衣幘假り、自ら印綬、衣幘を服す、千有餘人。部從事吳林、樂浪本は韓國を統べたを以て、辰韓八國を分割し、以て樂浪に與う。吏譯、轉して異同有り。臣智激し、韓忿り、帶方郡、崎離營を攻す。時の太守弓遵、樂浪太守劉茂、兵を興し之を伐す。遵戰死、二郡遂に韓を滅す。

其の俗、綱紀少なし、國邑主帥有る雖も、邑落雜居し善く相い制御能わず。跪拜の禮無し。居處、草屋、土室を作り、形冡の如く。其の戶上に在り、家を舉げて共に中に在る。長幼、男女の別無し。其の葬、棺有り、槨無し。牛馬に乘るを知らず、牛馬死を送るに於いて盡くす。瓔珠を以て財寶と爲す。或いは衣に綴るを以て飾と爲し、或は頸に縣け、耳に垂らすを以て、金銀、錦繡を珍と爲さず。其の人性、強勇、魁頭を露紒し炅兵の如く。衣は布袍、足は革の蹻蹋を履く。

其の國中、及ぶ官家爲す所有り、城郭を築くに諸年少の勇健者を使う。皆脊皮を鑿り、以て大繩を之に貫き、又丈許りの木を以て、之を鍤に通し、日嚾き呼び、力を作る。痛み爲さずを以て、既に以て作り勸め且つ以て健と爲す。

常に五月下を以て種訖わり、鬼神を祭り、羣聚で歌舞し飲酒し、晝夜無休。其の舞、數十人、俱に起ち相い隨って地を踏み、低く昂く手足を相い應える。鐸舞に似た節奏有り。十月の農功畢り、亦、之の如く復す。鬼神を信じ、國邑各一人天神の主祭に立ち、この名を天君。又諸國、各別邑有り。この名を蘇塗と爲す。大木を立て、鈴鼓を縣け、鬼神に事す。諸亡逃げ其の中に至り、皆之を還さず。好んで賊を作る。其の蘇塗を立つの義、浮屠に似る有り。而る所、善惡の行い異有り。其の北方、郡諸國に近く、禮俗の差を曉る。其の遠處す、囚徒、奴婢の相聚の如く、直す。

他に珍寶無し。禽獸、草木、略と中國同じ。大栗出し、大は棃の如く。又、細尾雞を出す。其の尾は皆長さ五尺余。其の男子時時、文身有り、又州胡有り、馬韓の西海中の大島の上に在る。其の人、差短小で、言語は韓と同じでなく、皆、鮮卑の如く髠頭、但し衣は韋。牛及び豬を養うを好み、其の衣上有り、下無し。裸勢の如く略す。船に乘り、中韓を巿買し往來す。


【日本語訳】

桓帝~霊帝の末、韓と濊は勢力を増し、郡と県は制御できなくなってきた。民は多く韓国に流入した。建安中に公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とした。公孫模、張敞等を遣わし、漢人を集めて、兵を興して韓と濊を征伐した。旧民は次第に出ていき、この後倭と韓は遂に帯方郡に属した。景初中に明帝密かに帯方太守劉昕、楽浪太守鮮于嗣を遣わして、海を越えて二郡を平定した。韓の諸国の臣智には邑君印綬を、その次の位の官人には邑長を与えた。

その習俗、衣幘を好み、下戸は郡に詣り朝謁する時、皆衣幘貸りて、自らの印綬、衣幘を着る者たちは千人あまりいる。部従事・呉林は楽浪郡は元々は韓国を統治していたとして、辰韓八国を分割し、楽浪郡に編入した。通訳が、転々として上手く伝わらなかった。臣智は激し、韓は怒って、帯方郡の崎離営を攻撃した。時の帯方太守弓遵、楽浪太守劉茂は兵を興して韓を征伐した。弓遵は戦死したが、二郡は遂に韓を滅した。

その習俗、綱紀は少なく、国邑に主帥がいるといっても、邑落は雑居していてあまり制御できていない。跪拝の礼は無い。住居は、草の屋根、土の部室を作り、形は冡のようである。その戸は上にあって、家を挙げて共に中に住んでいる。長幼、男女の別は無い。その葬儀は、棺は有るが槨は無い。牛馬に乗ることを知らず、牛馬は死を送る時に尽くしてしまう。瓔珠を財宝としている。それを衣に綴って飾りにしたり、首にかけたり、耳に付けて垂らしたりして、金銀、錦繡を珍重しなかった。その人性は強く勇敢で、素頭に何もかぶらず、炅兵のようである。衣は布袍を着て、足は革の蹻蹋を履く。

その国中、及んでいるところで官家とする所が有り、そこの城郭を築くにのに諸々の年少の勇健者を使う。皆背中の皮に穴を開け、大縄をその穴に通し、一丈ばかりの木を鋤に通して、一日騒がしく呼び会い、力仕事で作る。痛みがないのを、作り進めてかつ健康とした。

常に五月下旬に種をまき終わり、鬼神を祭って、皆で昼夜無休で歌舞し飲酒する。その舞は数十人が共に起って互いに沿って地を踏んで、手足を低く高くして互いに応える。鐸舞に似た節や演奏がある。十月の農作業が終わったら、亦、五月の祭りのようにする。鬼神を信じており、国邑各々一人が天神の主祭に立つ、この名を天君という。又諸国、各々別邑が有る。この名を蘇塗という。大木を立てて、鈴、鼓をかけて、鬼神に仕える。諸国の亡人が逃げて蘇塗の中に至ると、皆還さない。好んで賊を作っている。その蘇塗を立てる意義は、仏教に似ているようである。ただ善悪の行いに異なっている所がある。その北方は郡諸国に近く、礼俗の差を悟っている。その遠くに住んでいると、囚人や奴婢の集団のようにあたる。

他に珍宝は無い。禽獸や草木は大体と中国と同じである。大栗を産出し、大きいのは梨くらいある。又、尾長鶏を出す。その尾は皆長さ五尺余ある。韓の男子は時々文身している者がいる。又州胡があり、馬韓の西海中の大島の上にある。その人、背が小さく、言語は韓と同じでない。皆、鮮卑のような髠頭をしている、但し衣はなめしかわを使っている。牛や豬を養っていて、其の衣は上は有るが、下は無い。裸のように略している。船に乗って、中国と韓の間を商売をして往来している。


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建安中・・・196~220年


屯有県・・・現在の黄海北道黄州方面


景初中・・・237~239年


浮屠・・・仏陀、仏塔、仏寺、僧侶のこと


州胡・・・朝鮮半島西側の島々のいずれかか。




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