【原文】

大伯初奔荊蠻荊蠻歸之號曰句呉「師古曰句音鉤夷俗語之發聲也亦猶越爲於越也」大伯卒仲雍立至曾孫周章而武王克殷因而封之又封周章弟中於河北是爲北呉「師古曰中讀曰仲」後世謂之虞十二世爲晉所滅後二世而荊蠻之呉子壽夢盛大稱王其少子則季札有賢材兄弟欲傳國札讓而不受自壽夢稱王六世闔廬舉伍子胥孫武爲將戰勝攻取興伯名於諸侯「師古曰伯讀曰霸」至子夫差誅子胥用宰嚭「師古曰嚭音披美反」爲粤王句踐所滅呉粤之君皆好勇故其民至今好用劍輕死易發粤既并呉後六世爲楚所滅後秦又撃楚徙壽春至子爲秦所滅壽春合肥受南北湖皮革鮑木之輸「師古曰皮革犀兕之屬也鮑鮑魚也木楓柟豫章之屬」亦一都會也始楚賢臣屈原被讒放流作離騷諸賦以自傷悼「師古曰諸賦謂九歌天問九章之屬」後有宋玉唐勒之屬慕而述之皆以顯名漢興高祖王兄子濞於呉招致天下之娯游子弟枚乘鄒陽嚴夫子之徒興於文景之際而淮南王安亦都壽春招賓客著書而呉有嚴助朱買臣貴顯漢朝文辭並發故世傳楚辭其失巧而少信初淮南王異國中民家有女者「晉灼曰有女者見優異」以待游士而妻之故至今多女而少男「如淳曰得女寵或去男也臣瓉曰周官職方云揚州之民二男而五女此風氣由淮南王安能使多女也師古曰二説皆非也志亦言土地風氣既足女矣因淮南之化又更聚焉○劉敞曰班氏作史雑采異説亦安能無失瓉舉揚州之説是矣」本呉粤與楚接比數相并兼「師古曰比近也音頻寐反」故民俗略同呉東有海鹽章山之銅三江五湖之利亦江東之一都會也豫章出黄金然菫菫物之所有取之不足以更費「慶劭曰菫菫少也更償也言金少耳取不足用顧費用也師古曰慶説非也此言所出之金既以少矣自外物蓋亦不多故總言取之不足償直也菫讀曰僅更音庚」江南卑濕丈夫多夭會稽海外有東鯷人「孟康曰音題晉灼曰音鞮師古曰孟音是也」分爲二十餘國以歳時來獻見云


【書き下し文】

大伯初めて荊蠻に奔り、荊蠻之に歸し、號して句呉と曰う。「師古曰く、句の音は鉤。夷俗語の發聲也。亦猶越爲すに於いて越也。」大伯卒し、仲雍立つ。曾孫の周章に至りて、武王は殷に克ち、因って、之を封ず。又、周章の弟の中を河北に封ず。是を北呉と爲し、「師古曰く、中の讀み仲と曰う。」後世之を虞と謂い、十二世で晉に滅する所に爲る。二世後に荊蠻の呉子壽夢盛大にして王を稱す。其の少子則ち季札は賢材有り。兄弟は傳國を欲するも、札は讓りて受けず。壽夢自ら王を稱して六世、闔廬は伍子胥を舉げ、孫武を將と爲し、戰勝攻取して諸侯に伯名を興すも、「師古曰く、伯の讀み霸と曰う」子の夫差に至り、子胥を誅し、宰嚭を用いて「師古曰く、嚭の音美の反すと披ぶる」粤王句踐に滅す所と爲る。

呉粤の君は皆を勇を好む。故に其の民は今に至るも劍を用いるを好み、死を輕んじ發し易し。粤は既に呉を并わせ、後六世にして楚の滅す所と爲る。後に秦は又楚を撃つ。壽春に徙り、子に至り秦の滅す所と爲る。壽春、合肥は南北の湖で皮革、鮑、木の輸を受け「師古曰く、皮革は犀や兕の屬す也。鮑、鮑魚、木は楓や柟、豫章の屬す也。」亦一都會也。始め楚の賢臣屈原は讒せられ放流し、離騷諸賦を作り、以って自ら傷悼す。「師古曰く、諸賦は九歌天に問い九章之に屬すと謂う」後に宋玉、唐勒の屬有り。慕いて之を述べ、以って皆名を顯わす。漢興り、高祖は王兄の子濞を呉の王とし、天下の娯游の子弟を招致し、枚乘、鄒陽、嚴夫子の徒、景の際に文興る。而して淮南王安も亦壽春を都とし、賓客招いて書を著す。而して呉に嚴助、朱買臣有り、漢朝に貴顯して、文辭並び發ち、故に世も楚辭を傳う。其の失は巧にして信少し。初め淮南王は國中民家の女有る者を異とし、「晉灼曰く、女有る者優れて異なると見る。」以って游士を待しこれを妻とす。故に今に至りて女多く男少なし。「如淳曰く、女は寵を得、或は男は去る也。臣瓉曰く、周の官職方、揚州の民二男や五女は此の氣風由と云う。淮南王安、能く多く女を使う也。師古曰く、二説は皆非ず也。志亦言う。土地の氣風は既に女足るかな。淮南の化に因る又は更に聚まっている。劉敞曰く、班氏作の史、雑な異説采る。亦安は能く、揚州の瓉失う無く是の説舉げる。」もと呉、粤と楚は接比し數相并兼し、「師古曰く、比の近く也。音は頻や寐と反す。」故に民俗は略呉と同じ。東に海鹽、章山の銅、三江五湖の利有り。また江東の一都會也。豫章は黄金を出す。然して物の所有は菫菫たり。これを取るも以って更に費に足らず。「慶劭曰く菫菫少ない也。金少ないと言うを耳にし、更に償う也。不足を取るに用いる費用を顧みる也。師古曰く、慶説非ざる也。此の言、金の出る所既に以って少ない。自ら外の物を蓋い、亦多からず。故に總ての言取って、これ不足し直に償う也。菫讀曰く、僅かに更の音は庚。」江南は卑濕にして、丈夫多く夭す。會稽の海外に東鯷人「孟康曰く、音は題。晉灼曰く、音は鞮。師古曰く、孟の音是也」の分有り。二十餘國を爲し、歳時を以って來たり獻見すと云う。


【日本語訳】

太伯が初めて荊蛮に逃れると、荊蛮は太伯に帰属し、句呉と号した。「顔師古の注釈。句の音は鉤である。現地語の発声である。また越は今だ越である。」太伯が亡くなって、仲雍が跡を継いだ。曽孫の周章の代になった時に、武王が殷に勝利し、周章を呉に封じた。又、周章の弟、中を河北に封じ、これを北呉とした。「顔師古の注釈。中の読みは仲である。」後世はこれを虞と言った。十二世の代に晋に滅ぼされた。

虞が滅びた後、二世で荊蛮の呉子、寿夢が盛大になり王を称した。その末子の季札は有能な人物だったので、兄弟は季札に王位を嗣がせたいと思ったが、譲って受けなかった。寿夢が王を称して六代、闔廬は伍子胥を登用し、孫武を将軍とした。戦に勝ち、領土を攻め取り、諸侯の長として名を馳せたが、「顔師古の注釈。伯の読みは霸である」、子の夫差の代では、伍子胥を誅して宰相伯嚭を用い、「顔師古の注釈。嚭の音は美の反対と被る」越王句踐に滅ぼされることになった。

呉越の君主は皆勇を好んだ。故にその民は今に至っても剣を用いるのを好み、死を軽んじて動きやすい。越は既に呉を併呑した後、六世で楚に滅ぼされる。後に秦は楚を撃ち、寿春に移り、その子に至り秦に滅ぼされた。寿春、合肥は南北の湖で皮革、鮑、木材の輸送を受け「顔師古の注釈。皮革は犀や兕のものである。鮑、鮑魚、木は楓や楠、豫章に有るものである。」また一都会である。始め楚の賢臣屈原は讒言を受けて放逐され、離騷の諸賦を作って自らを傷を悼んだ。「顔師古の注釈。諸賦は九歌を天に問い、九章はこれに属していると言う。」後世に宋玉、唐勒らのグループが思慕して之を述べて、それで皆で名をあらわした。漢が興り、高祖は兄の子濞を呉の王として、天下の遊興の子弟を招致した。枚乘、鄒陽、嚴夫子達は、景帝の際に文学集団を興した。淮南王劉安もまた寿春を都とし、賓客を招いて書を著した。呉には厳助、朱買臣がいて、漢朝に貴顕して、文辭並びたったため、世にも楚辭を伝えられた。その欠点は巧みだが信が少ないことである。初め淮南王は国中の民家で娘有る者を区別し、「晉灼の注釈。女有る者は優れていて異なると見る。」遊士を歓待させ、その妻とした。それで今に至っても女が多く男が少ない。「如淳の注釈。女は寵愛を得て、或は男は去っている。臣瓉の注釈。周の官職側では揚州の民の二男五女はこの土地の気風であるという。淮南王劉安は多くの女を使っていた。顔師古の注釈。二説は皆ありえない。志はまた言う。土地の気風は既に女が足りている。淮南の化に因るものか、又は更に集まっている。劉敞の注釈。班氏作の史書は雑な異説を採用している。また劉安は優れた人物で有り、揚州の瓉失う事なくこの説を挙げる。」もと呉、越と楚は接しており、しばしば領土争いをしている。「顔師古の注釈。比は近くである。音は頻や寐の反対である。」だから民俗はほとんど呉と同じである。東に海の塩、章山の銅、三江五湖の利が有る。また江東の一都会である。豫章は黄金を出す。しかし含有量は少なく、これを取っても採算が取れない。「慶劭の注釈。菫菫は少ないと言う意味である。金が少ないと言うのを耳にして、更に償う。不足を取り戻すのに用いる費用を顧みる。顔師古の注釈。慶劭説は違う。この言葉は、金の出る所は既に少ない。自ら外の物で覆い、また多くはない。故に総ての言葉を取って、これが不足して直に償っている。菫讀の注釈。僅かに更の音は庚である。」江南は土地が低く湿地帯なので、若死にする男が多い。

会稽の海外に東鯷人「孟康の注釈。音は題である。晉灼の注釈。音は鞮である。顔師古の注釈。孟康の音がこれである。」の分野が有り、二十余りの国がある。歳時ごとに来て、献見すると伝わる。


======================================================


伍子胥・・・楚の人。政争に巻き込まれ、呉に亡命する。公子光(即位後は闔廬)に仕え、側近となる。夫差の代には越の離間工作により、王と不仲になり自害した。


孫武・・・兵法書孫子の作者と言われる。伍子胥の推挙により呉に仕え、将軍となる。呉の勢力拡大に寄与する。後半生については記録が残っていない。


伯嚭・・・楚の人。伍子胥を頼って、呉に亡命する。賄賂に負けて越と密通したといわれ、彼の讒言に振り回された呉王夫差は、伍子胥を殺してしまったという言い伝えがある。


寿春・・・現在の安徽省六安市寿県


合肥・・・現在の安徽省合肥市


屈原・・・楚の政治家で詩人。頃襄王の時に江南へ左遷された。秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、石を抱いて入水自殺した。


離騷・・・「楚辞」の巻頭の編名。屈原作。三七二句からなり、楚の非運を嘆く憂国の情と讒言に遭って追われる憂愁を幻想的にうたったもの。


宋玉・・・楚の大夫で文学者。賦の作者で、屈原に次ぐ者として「屈宋」と並称される。


唐勒・・・楚の人。賦の作者で宋玉、景差と共に楚の宮廷文壇に参加する。


淮南王劉安・・・劉邦の七男・淮南厲王劉長の子。「淮南子」の主著者。武帝の時に反乱を企て、密告により露見し、自害。一族はことごとく処刑された。


枚乘・・・賦や文章を得意とした遊説の徒。呉王劉濞、梁王劉武に仕える。


鄒陽・・・斉の人。遊説の徒。梁王劉武に仕える。


嚴夫子・・・荘忌。姓の「荘」が後漢明帝の名であるため、漢書では諱を避けて「嚴」になっている。遊説の徒。呉王劉濞、梁王劉武に仕える。


景帝・・・前漢の第6代皇帝劉啓。在位:前156年~ 前141年。呉楚七国の乱が起こり、鎮圧する。


厳助・・・荘助。武帝の側近。淮南王安の謀反が発覚すると、係わりが発覚し処刑される。


朱買臣・・・荘助の推挙で武帝に仕える。東越を破り、功績があった。張湯との諍いにより武帝より誅殺される。


晉灼、慶劭、菫読、孟康・・・いつの時代の人か不明。事績も不明。



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【原文】

呉地斗分壄也今之會稽九江丹陽豫章廬江廣陵六安臨淮郡盡呉分也殷道既衰周大王亶父興[支阝]梁之地長子大伯次曰仲雍少曰公季公季有聖子昌大王欲傳國焉大伯仲雍辭行采藥遂奔荊蠻公季嗣位昌爲西伯受命而王故孔子美而稱曰大伯可謂至悳也已矣三以天下讓民無得而稱焉謂虞仲夷逸隱居放言身中清廢中權 「師古曰皆論語載孔子之言為也虞仲即雍也逸言竄於蠻夷而遁逸也隠居而不言故其身清潔所廢中於權道」



【書き下し文】

呉地は斗宿の分壄也。今の會稽、九江、丹陽、豫章、廬江、廣陵、六安、臨淮郡は盡く呉の分也。

殷の道既に衰え、周の大王亶父、[支阝]梁の地に興る。長子を大伯、次を仲雍と曰い、少を公季と曰う。公季に聖子昌有り、大王國を傳えんと欲す。ここに大伯、仲雍は采藥辭行して、遂に荊蠻に奔る。公季位を嗣ぎ、昌を西伯と爲し、命を受けて王となる。故に孔子、美て稱えて曰く、大伯、至悳と謂うべきなる也。已が三を以って天下を讓る、民は稱え得る無し。虞仲、夷に逸げて隱居して放言し、身の中は清らか、中の權を廢すると謂う。 「師古曰く、論語は孔子の言皆載せ為す也。虞仲は即ち雍也。逸は竄と言う。蠻夷に於いて、遁逸する也。隠居と言わず、故に其の身清潔なる所、中の權道に於いて廢す。」


【日本語訳】

呉地は斗の分野である。今の会稽、九江、丹陽、豫章、廬江、広陵、六安、臨淮郡はことごとく呉の領域である。

殷の政道が既に衰え、周の大王亶父は、[支阝]梁の地で勃興した。長子を太白、次子を仲雍と言い、末子を公季と言った。公季には聖なる子昌がいて、大王は国を継がせたいと望んだ。そこで大伯、仲雍は王位を辞して薬を取りに行き、遂に荊蛮へと去って行った。公季が王位を嗣ぎ、昌は西伯と為り、天命を受けて王となった。故に孔子は「大伯は至徳と言うべきだ。自身が三度天下を譲ったのに、民は称えなかった。」と褒め称えて言った。「虞仲は夷に逃げて隠居し、思ったままを口に出した。身を清めて、中央の権力を捨てた」と言う。

「顔師古曰く、論語には孔子の言葉を全て載せている。虞仲は即ち仲雍のことである。逸は竄と言う。蛮夷に逃げ隠れるということである。隠居と言わない故に其の身清潔であり、中央の権力を捨てた。」


======================================================

斗宿・・・二十八宿の一つで、北方玄武七宿の第一宿。距星はいて座φ星。


亶父・・・周王朝の初代武王の曾祖父


[支阝]梁・・・岐山のこと。周王朝発祥の地で有り、周平王が東の洛邑へ遷るまでの400年間近くの間、西周の中心地であった


会稽・・・現在の浙江省紹興市


九江・・・現在の江西省九江市


丹陽・・・現在の江蘇省鎮江市


豫章・・・現在の江西省南昌市


廬江・・・現在の安徽省合肥市


広陵・・・現在の江蘇省揚州市


六安・・・現在の安徽省六安市


臨淮郡・・・現在の江蘇省北部泗洪県南


昌・・・武王の父文王


西伯・・・西の統括をする諸侯




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呉地斗分壄也今之會稽九江丹陽豫章廬江廣陵六安臨淮郡盡呉分也殷道既衰周大王亶父興[支阝]梁之地長子大伯次曰仲雍少曰公季公季有聖子昌大王欲傳國焉大伯仲雍辭行采藥遂奔荊蠻公季嗣位昌爲西伯受命而王故孔子美而稱曰大伯可謂至悳也已矣三以天下讓民無得而稱焉謂虞仲夷逸隱居放言身中清廢中權 「師古曰皆論語載孔子之言為也虞仲即雍也逸言竄於蠻夷而遁逸也隠居而不言故其身清潔所廢中於權道」大伯初奔荊蠻荊蠻歸之號曰句呉「師古曰句音鉤夷俗語之發聲也亦猶越爲於越也」大伯卒仲雍立至曾孫周章而武王克殷因而封之又封周章弟中於河北是爲北呉「師古曰中讀曰仲」後世謂之虞十二世爲晉所滅後二世而荊蠻之呉子壽夢盛大稱王其少子則季札有賢材兄弟欲傳國札讓而不受自壽夢稱王六世闔廬舉伍子胥孫武爲將戰勝攻取興伯名於諸侯「師古曰伯讀曰霸」至子夫差誅子胥用宰嚭「師古曰嚭音披美反」爲粤王句踐所滅呉粤之君皆好勇故其民至今好用劍輕死易發粤既并呉後六世爲楚所滅後秦又撃楚徙壽春至子爲秦所滅壽春合肥受南北湖皮革鮑木之輸「師古曰皮革犀兕之屬也鮑鮑魚也木楓柟豫章之屬」亦一都會也始楚賢臣屈原被讒放流作離騷諸賦以自傷悼「師古曰諸賦謂九歌天問九章之屬」後有宋玉唐勒之屬慕而述之皆以顯名漢興高祖王兄子濞於呉招致天下之娯游子弟枚乘鄒陽嚴夫子之徒興於文景之際而淮南王安亦都壽春招賓客著書而呉有嚴助朱買臣貴顯漢朝文辭並發故世傳楚辭其失巧而少信初淮南王異國中民家有女者「晉灼曰有女者見優異」以待游士而妻之故至今多女而少男「如淳曰得女寵或去男也臣瓉曰周官職方云揚州之民二男而五女此風氣由淮南王安能使多女也師古曰二説皆非也志亦言土地風氣既足女矣因淮南之化又更聚焉○劉敞曰班氏作史雑采異説亦安能無失瓉舉揚州之説是矣」本呉粤與楚接比數相并兼「師古曰比近也音頻寐反」故民俗略同呉東有海鹽章山之銅三江五湖之利亦江東之一都會也豫章出黄金然菫菫物之所有取之不足以更費「慶劭曰菫菫少也更償也言金少耳取不足用顧費用也師古曰慶説非也此言所出之金既以少矣自外物蓋亦不多故總言取之不足償直也菫讀曰僅更音庚」江南卑濕丈夫多夭會稽海外有東鯷人「孟康曰音題晉灼曰音鞮師古曰孟音是也」分爲二十餘國以歳時來獻見云



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漢書は後漢三代皇帝、章帝(在位75~88年)の時に班固、班昭らによって編纂された前漢の歴史書である。
漢書の倭人については、燕地条に記載がある。
該当部分は最後の方の20文字である。
「夫樂浪海中有倭人分為百餘國以歲時來獻見云」

「夫」ついては、北宋の劉敞が注釈で夫の字は上句に属すべきものであるとあり、孔子についての記述に付く字と解釈する。

「樂浪海中有倭人分為百餘國以歲時來獻見云」

昔からよく聞いてたのは
「楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来たり献見すと云う。」
であったが、改めて燕地条を見てみると、「分」を燕の分(野)というふうに使っているので、下記の方が正しいのではないかと思われる。

「楽浪海中に倭人の分有り。百余国と為し、歳時を以て来たり献見すと云う。」

前漢時代に倭人が訪れていたという伝聞があったという文章で、その頃は100余りの国があり、場所は楽浪海の中に倭人の領域があった。
ところで楽浪海はどこのことだろうか?楽浪郡は今の平壌に郡治があったと言われるので、現在の黄海と思われる。ということは、朝鮮半島南部に倭人の領域があったと言うことになる。北部九州も含まれるとは予想するが、この文章だけでは何とも言えない。

歳時は1年のそのおりおり、四季おりおりとあり、定期的に決まった時期に訪問していた様子がうかがえる。

献見は貢ぎ物を持って来朝したと言うことで、前漢の都、長安まで使節が訪問したと言うことになる。

云うと伝聞の形を取っているので、正式な訪問はなかったとも推測できる。

「如淳曰 如墨委面 在帶方東南萬里」
魏の如淳の注釈「如墨委面」はよくわからない。倭人の顔は入れ墨をしている、入れ墨のように顔がことこまかになっている、墨家のようにお辞儀をする。おおまかに考えられるのは、これくらいである。
場所については帯方郡の東南万里にあったということで、東南は現在の慶尚北道、慶尚南道方面、日本列島を指す。万里を一万里とみるか、遠方を表すかは不明であるが、短里で計算すると770km。帯方郡の郡治は諸説有るが、ソウル近郊とすると北部中部九州、中国地方の西部が範囲に入る。

「臣瓚曰 倭是國名 不謂用墨 故謂之委也」
西晋の臣瓚の注釈で、西晋の時代には倭は国名と認識していることがわかる。漢書では倭国ではなく倭人と書いてあり、まだ倭国といった大きな国にはなっていなかったと推測できる。
墨を用いずとは如淳の注釈に対する記述である。入れ墨をしてなかったということか?「如墨委面」の否定的な見解である。
倭は、昔は委であると書いてある。志賀の島で発見された金印には「漢委奴国王」とある。
委国(もしくは委奴国)から倭国に名称が変更になったという認識である。

「師古曰 如淳云 如墨委面 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國 魏略云 倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種」

唐の顔師古の注釈で、「委」と「倭」の音が違う、「戈」の反対の音であると。となると、金印の漢の倭の奴の国王という解釈は間違っていることになります。漢の委奴(国)の国王が正しいかも知れません。
魏略からの引用で、帯方郡の東南の大海の中に倭があり、山と島で国を為している。そこから海を千里渡ると、国が在り、倭種である。倭国から千里海をわたると国が在り、倭人と同じ民族が住んでいるとなる。島で国を為しているというと、朝鮮半島南岸の島々、対馬、壱岐、五島列島などの九州の島々が想像できる。そこから海を渡ったところにも倭人の国があるとも認識されている。

注釈についてはなかなか目にすることはなかったので、今回なかなか興味深いことがわかった。


書き下し文、日本語訳で間違っている部分はあると思うので、指摘していただければありがたいです。


次は三国志に行きますが、その前に東鯷人が気になるので、漢書 呉地条を見ていきたいと思います。





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【原文】
殷道衰箕子去之朝鮮「師古曰 史記云 武王伐紂 封箕子於朝鮮 與此不同」教其民以禮義田蠶織作樂浪朝鮮民犯禁八條師古曰 八條不具見」相殺以當時償殺相傷以穀償相盜者男沒入為其家奴女子為婢欲自贖者人五十萬雖免為民欲猶羞之嫁取無所讎師古曰 讎 匹也 一曰讎讀曰售」是以其民終不相盜無門戶之閉婦人貞信不淫辟師古曰 辟讀曰僻」其田民飲食以籩豆師古曰 以竹曰籩 以木曰豆 若今之檠也 檠音其敬反」都邑頗放效吏及內郡賈人往往以懷器食師古曰 都邑之人頗用杯器者 效吏及賈人也 放音甫往反郡初取吏於遼東吏見民無閉臧及賈人往者夜則為盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條可貴哉仁賢之化也然東夷天性柔順異於三方之外師古曰 三方 謂南西北也」故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也
師古曰 論語稱 孔子曰 道不行 乘桴浮於海 從我者其由也歟 言欲乘桴筏而適東夷 以其國有仁賢之化 可以行道也 桴音孚 筏音伐」
夫樂浪海中有倭人分為百餘國以歲時來獻見云
如淳曰 如墨委面 在帶方東南萬里
臣瓚曰 倭是國名 不謂用墨 故謂之委也
師古曰 如淳云 如墨委面 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國 魏略云 倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種
劉敞曰夫字宜屬上句」

自危四度至斗六度謂之析木之次燕之分也

【書き下し文】
殷の道衰え、箕子は朝鮮に去り、「師古曰く、史記云う。武王紂を伐し、 箕子を朝鮮に封ずと、此不同。」其の民に禮義を以て、田蠶・織作を教う。樂浪・朝鮮の民禁八條を犯す師古曰く、八條具に見ず」、相殺すは當に時を以て殺に償う、相傷つけるは穀を以って償う。相盜者は男は沒入して其家の奴と為し、女子は婢と為す。自ら贖わんと欲する者は、人に五十萬。免れ民と為すと雖も、猶これを羞じと欲し、嫁を取るに讎う所無く師古曰く。讎は匹也。 一に曰く、讎は售と讀む」、是を以て其民は終に相盜まず、門戶の閉ざす無く、婦人は貞信にして淫辟せず。其田民は籩豆を以て飲食し師古曰く、竹を以て籩と曰い、 木を以って豆と曰う。若しくは今の檠也。檠の音其の敬に反す」
都邑は頗る吏及び內郡の賈人に放效い、往往懷器を以て食す。郡は初め遼東に吏を取り、吏は民の閉臧無きを見、及び賈人の往く者、夜に則ち盜を為し、俗は稍く益薄し。今に禁を犯すは浸く多く、六十餘條もに至る。貴ぶ可き哉、仁賢の化也。然るに東夷は天性柔順、三方の外とは異なる「顔師古曰く、三方 南西北を謂う也」、故に孔子は道の行われざるを悼しみ、浮を海に設け、九夷に居らんと欲す、ゆえ有るかな。「顔師古曰く、論語稱して孔子曰く、道行わず、 桴に乘り、海に浮かぶに於いて、其由に我從う者也か。桴筏に乘ると欲しと言い、而して東夷に適し以って其の國仁賢の化有り、以って道行うべき也。桴の音は孚。筏の音は伐。」
樂浪海中に倭人の分有り、百餘國と為し、歲時を以て來たり獻見すと云う。
如淳曰く、 墨が如く面を委す。帶方の東南萬里に在り。
臣瓚曰く、 倭は是れ國名。墨を用いると謂わず。故にこれ委と謂う也。
顔師古曰く、如淳云う、如墨委面。蓋し委字の音を耳するに、 此の音に非ざる也。倭音は一つ戈に反す。今猶倭國有り。魏略云う、倭は帶方東南大海中に在り、山や島に依って國を爲し、海千里を度ると、復た國有り。皆倭種。
劉敞曰く、夫の字宜しく上句に屬すべし。」

危の四度より、斗の六度至る、これを析木の次と謂い、燕の分也。

【日本語訳】
殷の政道が衰えると、箕子は朝鮮に去り「顔師古の注釈。史記によると、武王が紂王を征伐した後、箕子を朝鮮に封じたとあり、これと同じではない」、そこの民に礼儀を以て、稲作、養蚕、機織りを教えた。楽浪郡、朝鮮の民が禁じられた八ヶ条を犯した場合「顔師古の注釈。 八條は詳しくはわからず」、殺人は即座に死刑で償い、傷害には穀物で償う。盗みには、男の場合は盗みに入った家の奴となり、女子は婢となる。自らあがなおうとする場合、人に50万を渡す。(※お金なのか、穀物の量なのか不明)罪を免れ、民に戻っても、これを恥と思う。嫁を取るに償いがなく「顔師古の注釈。讎は匹である。 一説には、讎は售と読む」、これでその民は遂に盗むことを止め、門戸の戸締まりをせず、婦人は貞淑で淫乱ではない。その農民は籩豆を用いて飲食をし「顔師古の注釈。竹を籩といい、木を豆という。 もしくは今の檠である。 檠の音は敬とは反対である。」、都邑は官吏と内郡の商人に倣い、しばしば懷器を使って食事をした。楽浪郡は初め遼東郡から官吏を採用したが、官吏や往来する商人は民の戸締まりをしないのを見て、夜になって盗みをしたため、習俗は次第に損なわれた。今は禁を犯す者が多く、六十余りの禁制ができた。仁賢の感化は何と貴いものだろう。それにしても東夷は天性が柔順で、三方の蛮夷と異なる「顔師古の注釈。三方は南西北を言う。」。それゆえ孔子は道の行われないことを悼み、筏を設けて海に浮かび、九夷に行って住みたいと欲したのも、うなずける。「顔師古の注釈。論語は称えている。孔子が言う、道行われず桴に乗って、海に浮かぶのは、その理由に私が従う者であろうか。桴筏に乗りたいと言い、そうして東夷に適してその国に仁賢の化がある。そこで道を行うべきである。。桴の音は孚。筏の音は伐。」
楽浪郡の海の先に倭人の分野が有り、百余りの国がある。歳時ごとに来て、献見すると伝わる。
如淳の注釈。 墨が如く面を委す。帶方郡の東南の万里に在る。
臣瓚の注釈。 倭とはこれは国名である。墨を用いているとは言わず、昔はこれを委と言う。
顔師古の注釈。如淳が言う「如墨委面」思うに委の字の音を耳にすると、 此の音ではない。倭の音は一つ戈と反対である。今まだ倭国が有る。魏略によると、倭は帶方郡の東南の大海中に在り、山や島で国を為している。海を千里渡ると、また国が有り、皆倭種である。
劉敞の注釈。夫の字は上句に属すべきものである。」
危宿の四度から斗宿の六度至るまでを、析木の次と言い、燕の分野である。

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朝鮮・・・半島全部ではなく、北部地域と思われる。

箕子・・・名は胥余。殷の王族。紂王の叔父。箕の国に封じられる。殷の滅亡後、武王に招聘されて朝鮮に封じられた。

臣瓚・・・西晋の人。漢書に注釈を入れる。

籩豆・・・竹で編んだ高杯と木の高杯。儀礼に用いる器の名。

檠・・・灯火を立てる台。灯架、燭台。

懷器・・・どのような器か不明。深い椀みたいなものか?

九夷・・・東方にあると考えた九つの東夷。畎夷 ・于夷 ・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷

劉敞・・・北宋の官僚。1019~1068年。当時において無類の博学を誇った人物。

危宿・・・二十八宿の一つで、北方玄武七宿の第五宿。距星はみずがめ座α。北に近い。

斗宿・・・二十八宿の一つで、北方玄武七宿の第一宿。距星はいて座φ星。北東に近い。

析木・・・十二次の一つ。二十八宿の尾宿、箕宿、斗宿にあたる。



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