薊南通齊趙勃碣之間一都會也「師古曰 薊縣 燕之所都也 勃 勃海也 碣 碣石也 此石著海旁掲掲然特立之貌也」初太子丹賓養勇士不愛後宮美女民化以為俗至今猶然賓客相過以婦侍宿嫁取之夕男女無別反以為榮後稍頗止然終未改其俗愚悍少慮輕薄無威亦有所長敢於急人「赴人之急 果於赴難也」燕丹遺風也

上谷至遼東地廣民希數被胡寇俗與趙代相類有漁鹽棗栗之饒北隙烏丸夫餘「如淳曰 有怨隙也 或曰 隙 際也 師古曰 訓際是也 烏丸本東胡也 爲冒頓所滅 餘類保烏丸山 因以爲號 夫餘在長城之北 去玄菟千里 夫讀曰扶」東賈真番之利

玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷「師古曰 濊音穢 字或作薉 其音同」

【書き下し文】
薊は南に齊、趙に通じ、勃、碣の間の一都會也。「師古曰く、薊縣は燕の都する所也。勃は 勃海也。碣は碣石也。此の石著しく海の旁に掲掲し、然るに特にこの貌立つ也。」 初め太子丹は勇士を賓養し、後宮の美女を愛さず、民は化を以て俗と為す、今に至るも猶然り。賓客相過ぐるに、婦を以て宿に侍し、嫁取の夕に、男女の別無く、反りて以て榮と為す。後に稍頗止するも、然るに終に未だ改まらず。其の俗は愚にして悍く慮少く、輕薄にして威無し、亦長所有り、人の急に敢たるに於いては、「人の急に赴くは、 果たして赴くに於いては難也」燕丹の遺風也。

上谷より遼東に至るは、地廣く民希く、數胡の寇を被り、俗は趙、代と相い類し、漁・鹽・棗・栗の饒有り。北は烏丸、夫餘に隙し、東に真番の利を賈う「如淳曰く、 怨み隙有り也。或曰く、 隙 際也。師古曰く、是際は訓也。烏丸、本は東胡也。冒頓所するとこ滅した爲、餘類は烏丸山で保ち 因りて以って號と爲す。夫餘は長城の北に在り、玄菟千里去り。夫の讀みを扶と曰う。」

玄菟、樂浪は武帝の時に置き、皆朝鮮、濊貉、句驪の蠻夷なり。「師古曰く、濊の音は穢。 或いは字は薉と作る。 其の音は同じ。」

【日本語訳】
薊は南に齊と趙に通じており、勃海、碣石の間の一都会である。「顔師古の注釈。薊県は燕の都である。勃は勃海であり、碣は碣石である。この石は海に非常に近い場所にはっきりと際立っている。それなのにこの形が目立ってない。」初め太子丹は勇士を賓客として養い、後宮の美女を愛さなかった。民はその影響を受け、これが習俗となって、今なお続いている。賓客が互いに訪れ合えば、宿泊させ妻を侍らせ、嫁取りの夕べには、男女の別なく関係を持ち、かえってそれを栄誉とした。その後、次第にそのような習俗は少なくなってきたが、未だ改まっていない。その俗は愚かで、気が荒く、思慮に欠け、軽薄で威厳がない。長所は人の緊急に果敢に対応するのは、「人の急に赴くのは、 やはり難しい」燕丹の威風である。

上谷より遼東に至るまでは、土地が広く民は少なく、しばしば胡の寇を被り、俗は趙、代と似ていて、魚・塩・棗・栗が豊かに有った。北は烏丸、夫餘に接し、東に真番と交易をしていた。「如淳の注釈。怨が隙である。またある者は隙は際であるという。顔師古の注釈。この際は訓である。烏丸は元は東胡であった。冒頓が滅んだため、残党が烏丸山で勢力を保ったので、その地名から烏丸と号した。夫餘は長城の北にあり、玄菟郡から千里離れている。夫の読みは扶である。」

玄菟郡、楽浪郡は武帝の時に置かれ、皆朝鮮、濊貉、句驪の蛮夷であった。「顔師古の注釈。濊の音は穢。 或いは字は薉である。 その音は同じである。」

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薊・・・燕の都。現在の北京にあたる。

師古・・・顔師古。581年 ~645年。唐の学者。漢書100巻に注釈を作成。

如淳・・・三国時代、魏の官人。陳郡の丞に任じられた。

烏丸・・・烏桓とも表記。前1世紀から3世紀にかけて現在の内モンゴル自治区に存在していた民族

夫餘・・・夫余、扶余とも表記。満州にかつて存在した民族およびその国家

真番・・・真番郡。漢四郡の一つ。前108年~前82年に設置されていた。所在地については諸説在り。



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【原文】
燕地尾箕分野也武王定殷封召公於燕其後三十六世與六國俱稱王東有漁陽右北平遼西遼東西有上谷代郡雁門南得涿郡之易容城范陽北新城故安涿縣良鄉新昌及勃海之安次皆燕分也樂浪玄菟亦宜屬焉
燕稱王十世秦欲滅六國燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王不成而誅秦遂舉兵滅燕

【書き下し文】
燕地は尾、箕の分野也。武王は殷を定め、召公を燕に封じ、その後三十六世にして六國と俱に王を稱す。東に漁陽、右北平、遼西、遼東有り、西に上谷、代郡、雁門有り、南に涿郡の易、容城、范陽、北に新城、故安、涿縣、良鄉、新昌、及び勃海の安次を得、皆燕の分也。樂浪、玄菟、亦宜しく焉に屬す。燕の王を稱して十世、秦は六國を滅さんと欲す、燕王の太子丹は勇士荊軻を遣し西に秦王を刺さしめるも、成らずして誅され、秦は遂に兵を舉げて燕を滅す。

【日本語訳】
燕の地は尾宿、箕宿の分野である。武王は殷を平定し、召公を燕に封じ、その後三十六世で六国と共に王を称した。東に漁陽、右北平、遼西、遼東が有り、西に上谷、代郡、雁門が有り、南に涿郡の易、容城、范陽、北に新城、故安、涿縣、良鄉、新昌、及び勃海の安次を得、皆燕の分野である。樂浪郡、玄菟郡もまた燕に属する。燕の王を称して十世経った時に、秦は六国を滅ぼそうとした。燕王の太子丹は勇士荊軻を遣して、西で秦王を刺そうとするも、成功しないで誅され、秦は遂に兵を挙げて燕を滅ぼした。

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尾宿、箕宿・・・尾宿は、二十八宿の一つで東方青龍七宿の第六宿。距星はさそり座μ星。箕宿は二十八宿の一つで東方青龍七宿の第七宿。距星はいて座γ星。二十八宿は、天球における天の赤道を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもの。方角的に尾宿、箕宿は北東に近い。

武王・・・周朝の創始者、姫発。殷を滅ぼし、周(紀元前1046年頃~紀元前256年)を立てた。文王の次子。

漁陽・・・漁陽郡。現在の北京市、天津市、河北省の一部に相当する。

右北平・・・右北平郡。現在の河北省の一部と遼寧省の一部に相当する。漁陽郡と遼西郡の間。

遼西・・・遼西郡。現在の河北省の一部と遼寧省の一部に相当する。右北平郡と遼東郡の間。

遼東・・・遼東郡。現在の遼東半島を中心とした郡。

上谷・・・上谷郡。現在の北京市に相当する。

代郡・・・現在の河北省蔚県に相当する。

雁門・・・雁門郡。現在の山西省代県忻州市代県を郡治とした郡。

涿郡・・・現在の河北省涿州市に相当する。

容城・・・現在の河北省保定市に相当する。

范陽・・・范陽郡。現在の河北省涿州市に相当する。

新城・・・現在の河北省に有ったと思われる。

故安・・・故安県。涿郡内にある。現在の河北省保定市易県南東部に相当する。

涿縣・・・幽州の涿郡の治所。現在の河北省涿州市に相当する。

良鄉・・・良鄉県。現在の北京市房山区南東部に相当する。

新昌・・・新昌県。現在の遼寧省海城市北東部に相当する。

勃海・・・勃海郡。現在の河北省滄州市一帯に比定される。

安次・・・安次県。現在の河北省廊坊市安次区に相当する。

召公・・・周建国の功臣の一人、姞奭。武王と同姓の一族とされる(史記)。文王、武王、成王、康王の四代に仕えた。

楽浪郡・・・漢によって設置され、紀元前108年~313年まで存在した、朝鮮半島北部の郡。現在の平壌市に郡治が所在したと考えられている。

玄菟郡・・・漢により満州南部から朝鮮半島北部に設置された郡。紀元前108年~404年頃まで存在した。3段階で縮小されていき、高句麗の領有となる

太子丹・・・姞丹。最後の燕王喜の子。少年時代は、趙に人質として送られ、同じく人質だった秦の政(後の始皇帝)と親しかった。紀元前226年に秦が燕へと侵攻後、父であった燕王に殺され、首を秦に差し出された。

荊軻・・・燕の太子丹の命を受け、策略を用いて秦王の政を暗殺しようとするが失敗し、逆に殺された。『史記』卷086 第26 刺客列傳に伝あり。


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燕地尾箕分野也武王定殷封召公於燕其後三十六世與六國俱稱王東有漁陽右北平遼西遼東西有上谷代郡雁門南得涿郡之易容城范陽北新城故安涿縣良鄉新昌及勃海之安次皆燕分也樂浪玄菟亦宜屬焉

燕稱王十世秦欲滅六國燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王不成而誅秦遂舉兵滅燕

薊南通齊趙勃碣之間一都會也師古曰 薊縣 燕之所都也 勃 勃海也 碣 碣石也 此石著海旁掲 掲然特立之貌也」初太子丹賓養勇士不愛後宮美女民化以為俗至今猶然賓客相過以婦侍宿嫁取之夕男女無別反以為榮後稍頗止然終未改其俗愚悍少慮輕薄無威亦有所長敢於急人赴人之急 果於赴難也」燕丹遺風也

上谷至遼東地廣民希數被胡寇俗與趙代相類有漁鹽棗栗之饒北隙烏丸夫餘如淳曰 有怨隙也 或曰 隙 際也 師古曰 訓際是也 烏丸本東胡也 爲冒頓所滅 餘類保烏丸山 因以爲號 夫餘在長城之北 去玄菟千里 夫讀曰扶」東賈真番之利

玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷師古曰 濊音穢 字或作薉 其音同」殷道衰箕子去之朝鮮師古曰 史記云 武王伐紂 封箕子於朝鮮 與此不同」
教其民以禮義田蠶織作樂浪朝鮮民犯禁八條師古曰 八條不具見」相殺以當時償殺相傷以穀償相盜者男沒入為其家奴女子為婢欲自贖者人五十萬雖免為民欲猶羞之嫁取無所讎師古曰 讎 匹也 一曰讎讀曰售」是以其民終不相盜無門戶之閉婦人貞信不淫辟師古曰 辟讀曰僻」其田民飲食以籩豆師古曰 以竹曰籩 以木曰豆 若今之檠也 檠音其敬反」都邑頗放效吏及內郡賈人往往以懷器食師古曰 都邑之人頗用杯器者 效吏及賈人也 放音甫往反郡初取吏於遼東吏見民無閉臧及賈人往者夜則為盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條可貴哉仁賢之化也然東夷天性柔順異於三方之外師古曰 三方 謂南西北也」故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也 師古曰 論語稱 孔子曰 道不行 乘桴浮於海 從我者其由也歟 言欲乘桴筏而適東夷 以其國有仁賢之化 可以行道也 桴音孚 筏音伐」
夫樂浪海中有倭人分為百餘國以歲時來獻見云
如淳曰 如墨委面 在帶方東南萬里
臣瓚曰 倭是國名 不謂用墨 故謂之委也
師古曰 如淳云 如墨委面 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國 魏略云 倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種
劉敞曰夫字宜屬上句」

自危四度至斗六度謂之析木之次燕之分也