客観的世界=良い世界? | 迷い猫の見聞録

迷い猫の見聞録

「しなやかに美しく」をモットーにジャンルにこだわらず、
いろんなことに興味をもって、一日一日を大切に生きています。

我が子

見ないで
叱る

たいてい
見当違い
で、
よく
落ち込みます。

ああ
ちゃんと
見なくちゃなぁ

反省します。

聴覚からの情報
だけで
コンセンサス
を得るのは
難しいなぁ
と感じます。

しかし、
視覚
だけだと
奥行きを
きちんと
把握できない
気がします。

それを
応用している
のが

絵画作品
なのかもしれませんね。

実生活においては、
少なくとも
聴覚

視覚

一致しない

認識は
他者とはうまくつながれない
ように感じます。

耳から聞いた音
だけで
頭の中に
風景が浮かぶ
ことは
ありますが、
それは、
実際の風景
とは
かなり違いますので、
主観的な世界
の把握に
一役買っているのかもしれない
とも思います。

ただ、
盲いた人
のほうが
かえって
真実を見据える
という
逸話が数多くあるように
聴覚
のほうが、
心の風景
には
視覚
よりも
忠実なのかしらと
思います。

そう思うと
実生活においては
聴覚は入り口

視覚は出口
みたいな
働きをして
客観的な像を結んでいる
のかもしれませんね。

と思うのは、
先日の
運動会

周りの保護者の声援

聞きながら、
我が子の応援
をしていたのですが、
私の脳裏には、
保護者に交じっている
自分の姿が浮かんでいました。

が、
実際は
皆さん
日陰に引っ込んでらして、
私一人だけ
トラックのすぐ脇
で応援している
という
独壇場
になっていました^^;

しみじみ、
聴覚から結ばれる
風景
というのは
テキトーだなぁ
と。

重視
という言葉に、
重要なものとして扱う
という意味があったり、
真実を見る
という言い方はされますが、
真実を聴く
という表現は
あまり
耳にしないように、
見るという行為
あるいは、
視覚
には
周囲とのズレを調整し、
客観性を持たせる
という
能力がある
から、
重用されるのかしら?
と。

けれど、
あくまで、
ズレを感知する
というだけで、
そこには
本来
強制力はない
のだろう
と思います。

各感覚

働きは
そのズレによって
私がある
ということを
知らせる
あるいは
私をあらしめる
ための
手段
くらいの意味しかない
のではないかしら?
と思います。



結局、
我が子

恥ずかしがっている
というよりも
むしろ
嬉しそうでしたので、
私は
日陰には引っ込まず、
動画撮影用の
真っ赤なスマホ
片手に
そのまま
応援し続けました。

我が子の
運動会の絵
には
のぼり棒を登る
我が子

頂点とした
どっしりとした
三角形の構図
の裾野に
赤いスマホを持った
ニコニコのお母さん

その後ろで
ほほ笑むお父さん
と、
我が子を支えて
力強くほほ笑む先生

描かれていました。

その風景を見た人

少なかったかもしれませんが、
我が子が見た世界

私が見た世界
でもあり、
どっしりとした
三角形の構図

その世界のよさ

証明してくれている
ように感じました。