「質量」、「時間」、「生きる」とは。 | 迷い猫の見聞録

迷い猫の見聞録

「しなやかに美しく」をモットーにジャンルにこだわらず、
いろんなことに興味をもって、一日一日を大切に生きています。

物質の質量は、
高エネルギー状態では
非常に弱い結合状態
しかもたない
グルーオン

クォーク

エネルギーが低くなる
につれて、
結合状態を強くし、
あるエネルギー・スケール
(10のマイナス13乗)
に達したところで、
無限大の
結合強度になり、
複合状態を作ることで
生じます。

確認されている粒子
の中で、
唯一、
質量を持たないのは、
光子
です。

ただ、
それだと、
あの
エネルギー(E)= 質量(m)×光速度(c)の2乗
は成立しません。

光子の質量は
どうやって生まれるのか
そして、
質量とは何か
ということを
分かりやすく
解説しているのが、
本書です。

 

 

 

分かりやすく
といっても
私には
難しかったのですが、
それでも
印象に残ったのが、
質量が生じることで、
物質は静止することができ、
そのことで
時間が生まれる
ということです。

質量を持たないがゆえに
光子は
止まっておく
ということができず、
絶えず動き回っています。

それを
レオン・レーダーマン氏

年取りもしないが、
生きる甲斐もない
と表現していました。

逆の表現をすれば、
時間があるから、
生きる甲斐もある
ということなのでしょう。

人においても、
重みがある
とか
深みがある
といった表現をしますが、
それは
粒子レベルでもいえること
なのですね。

思うに
私のなかを流れる時間
には
重みがあるから
私を通過するときに
熱湯を浴びたときのように
ドロッと流れて、
焼き尽くすような熱さが
襲ってくるけれども、
いったん過ぎ去ると、
光速の速さで
遠ざかっていく
という
感覚が
私などには
あります。

それを
人は
経験
とか
体験
とよんでいるのかしら
と思います。

きっと
私に
重み
がなければ、
さらっと流れていき、
何の
味わいもないでしょう。

私の重みというのは、
光の側からすれば、
押し出すものなのでしょうが、
私の側からすれば、
引力のように
私に引きよせる力
であり、
それがない
というのは、
何事も他人事
自分がない
のと
同じことなのだろうなぁ
と。

レーダーマン氏によると
物質は玉ねぎ
のようなものであり、
確固とした
物体があるわけではない
そうですが、

というのも、
重みの集合体
のようなものであり、
したがって、
たった一つの
何かに
集約されるもの
ではない
のだろう
とも思います。

ただ
総体として
玉ねぎのように
存在している
と。

一つ一つの
重みがずっしりとしている
ほど、

というのは
リアリティを持つのだろう
と。


私の勝手な憶測ですが、
私という存在も
重みがないほど、
光子のように
まとまらずに
動き続け、
離散したものになるのでしょう。

多重人格
などが
そういう状態なのかしら
と思います。

引き寄せるには
負った傷が大きすぎて、
時間をとらえきれずに、
分裂してしまい、
一つの人格として
統合されない状態
になってしまうのかしら
と。

そういう人が
生きる意味を見出すのは
とても
難しいだろう
と想像します。

そう思うと、
時間
というのも、
人が生きていくために
必要だから
作り出したものなのだろう
とも
思えてきます。



質量が生まれる

というのは、

アスファルトを割って

花が咲くような

ものかもしれませんね。

画像はpinterestより拝借しています。

本書を読んで、
私などは
時間

私をかたどっている
枠として、
はっきりと
イメージできた
気がしました。


粒子のもっとも
根源的な存在が
ヒッグス粒子
ですが、
ヒッグス粒子
から
光子
が生まれる
ところまでは
解明できているようです。

けれど、
何もないところから
質量が生まれ、
ヒッグス粒子

生まれる
メカニズム

まだ解明されていない
そうです。

ヒッグス粒子

誕生する
メカニズム
が解明されれば、
宇宙誕生の謎
も解明されます。

光あれ
という
神の一撃
とは
何だったのか?

思いを巡らせ始めると、
止まりません。