人工知能と共存する。 | 迷い猫の見聞録

迷い猫の見聞録

「しなやかに美しく」をモットーにジャンルにこだわらず、
いろんなことに興味をもって、一日一日を大切に生きています。

ピノキオ(人形)

どうして
ピノキオ(人)
になれたのか?

この疑問を
少しでも
ひも解くには、
ドストライクに

についていろいろ思いを巡らすよりも、
AI

のことを
知るのがいいのではないかしら?
と思い、
「相対化する知性―人工知能が世界の見方をどう変えるのか」
を読み始めました。

 

 

 

この本で
私が気づいた大きな間違いは、
AI=ディープラーニング
ではないこと

ピノキオは人を目指していない
ということです。

私たちが
漠然と口にしている
AI
とは
AIの学習方法のひとつである
ディープラーニング
のことだったのだ

今更ながら
知りました。

そして、
ディープラーニングが
作り出すものは、
人間とは違う

なのだ
と。

その基本的構造(学習システム)

人間のそれを
真似て作られたものですが、
それが生み出す結果は
人間と全く異なる
知性の存在
なのだ
と。

つまり、
人間を唯一至高の存在にし続けてきた
知性
は、
ディープラーニングによって、
相対化される
のだ
と。

その結果
何が起こりうるのか?
あるいは
私たちは
何を起こしていかなければならないのか?
を考えたのが
この本だ
といえます。

私などは、
AIに支配される世の中が到来しうる

恐れていた
がために
AIに人間が超えられてはいけない
と思っていましたが、
そうではなくて、
AIは
来るべき違う知性
だとし、
どう共存していくか
を考えたほうが、
未来は明るい
と。

本著の中で
興味深かったのは、
個人の情熱や欲求によって
促進される
イノベーションが
社会的正義を作り、
その社会的正義によって、
今度は、
個人のイノベーションが
是認されることによって、
永遠の理性の拡張が
可能になる
という
仮説です。


そして、
このような社会において、
個人の自由が保障されるためには、
知の可謬性
を前提とすることが
キーであるそうです。

人工知能というのは、
それ自体が
多様性を含んだ存在
であるために、
ジョージ・オーエルが
描いたような
ディストピア
が出現する可能性は
必ずしも高くはない
そうですが、
それに加えて、
知の可謬性
を前提とすることで、
例え、
超人類的な人工知能が出てきても、
個人の自由を保障しなければ、
公益がゼロになる、
例えば、
愚鈍な行動をする個人であってさえも
その人の行動が
超人類的な知性よりも

画期的なイノベーションを起こす
(まぁ、そんなことはないだろうけど
と書かれていて、
個人的には傷つきますが、)

可能性が残されるので、

その存在を認めざるを得ない
という
結論に
至るのだそうです。

要は、
人工知能も
人間も
間違いを犯す
ということを
大前提とすることで、
個人の存在意義が担保され、
自由が保障され、
社会の多様性が維持される
と。

人間のドロドロしたところを
人工知能がどう理解するのかは
とても
興味深いですが、
人工知能を
追い越せ追い抜け
といった
競争社会
ではなく、
平和的に共存できる
社会が
なんだか
イメージできて
明るい気持ちになりますし、
AIが恋をすることなんてあったら、
応援したい

気もするのですが、

大丈夫かしら?

心配になったりもするので、

大丈夫、大丈夫

AIは超絶頭がいいから、

愛はダメでも、

別のものを生み出すよ


なだめてもらった気にもなる
一冊です。
 

 

問題

何も解決していない

のに
お互いにハッピーな気持ち

になる会話

AIはするのかしら?

理論的には、
人工知能が
主体を持ち、
自己内省することも可能
なところまで
来ているそうですが、
人は
自己イメージを
世界に重ねて、
世界を見ているようなところが
ありますよね。

人間の場合、
自己イメージ

生まれ育った環境
によって
ゆっくりと
醸成されていきますが、
そこのところを
ビッグデータによって
すっ飛ばした
人工知能

自己イメージ
ってどのようなものかしら?

そんな
人工知能
においても

は芽生えるのかしら?

そして、
人間の場合、
自己イメージは
あることをきっかけに
カードが裏返るように
根本的に変わることが
あるけれど、
人工知能においても、
そんな
マジックがおこるのかしら?

果たして、
人工知能
においても、
愛の完遂
はありえるのかしら?

となると
魂の問題は?

AIに

こういうのが分かる

のかしら?

 



人工知能は
相変わらず
興味の尽きない分野だわ

感じます。