知れば心が軽くなる究極の救済 | 迷い猫の見聞録

迷い猫の見聞録

「しなやかに美しく」をモットーにジャンルにこだわらず、
いろんなことに興味をもって、一日一日を大切に生きています。

アメブロでアフィリエイトが

公認されたんですね。

せっかくのいい機会なので、

私も紹介する本のアフィリエイトを

することにしました。

 

読んでみたいな

と思った本がありましたら、

よろしくお願いします🙏

 

なお、

収益に関しては、

年末まとめて

カタログハウスを通して、

ドイツ平和村に寄付させていただきます。

カタログハウス ドイツ平和村カンパ

 

皆様には、

年始に収益額をご報告させていただきますね。

 

一口2,000円からなので、

当面の目標は2,000円です。

 

頑張ります!

 

ヴィクトル・ユゴーの

「レ・ミゼラブル」を読んでから、

日本の小説で

罪や悪、救済について考えるのに

いいものはないか?と考えた時に

ふっと頭に浮かんだのが、

吉川英治の

「親鸞」

でした。

 

 

 

 

仏教に詳しくない方でも、

親鸞(しんらん)

という名前くらいは聞いたことがある

という方も多いのではないでしょうか?

 

彼の教義は、

法然の念仏宗を引き継いだもので、

南無阿弥陀仏

と念仏を唱えれば、

悪人でも極楽浄土に行けるというものです。

 

「親鸞」を読んで、

ハッとしたのは、

「レ・ミゼラブル」を読んでもなお、

私は

人は裁き・裁かれる存在だと

無意識に思っていたことです。

 

しかし、

それでは、

以前として悪人は悪人でしかないのです。

 

「親鸞」

の中には、

次のような彼の言葉が出てきます。

 

善人すら救われる

いわんや

悪人をや

 

実際の小説には古語で書かれているので、

現代訳するとこんな感じということですが、

この一節を読んで、

仏の慈悲とは、

本当の慈悲とは

何かを考えさせられました。

 

思えば、

善人が救われるのは当たり前です。

その程度の慈悲なら誰しも持っています。

 

しかし、

仏の慈悲は、

悪人をも救い、

極楽浄土へと導こうとするものだと知り、

仏、

仏性の素晴らしさ

というか、

懐の深さを痛感しました。

 

私などの小人は、

非道な殺人などを犯す人は、

やはり、

救いようがなく、

極刑になって地獄に落ちてもしょうがない

と思ってしまうのですが、

仏はそんな人でも救おうとする。

 

やはり、小人の慈悲と仏の慈悲は違うんですね...

 

「親鸞」

を読んでもう一つ思ったことは、

宗教も学問も

生活の中にあってこそ

本当の命を宿すということです。

 

時々、

学者の中で机上の空論ばかりで、

本人自身が幸せを実感できていないという場合がありますが、

こういったことは、

親鸞から言えば、

言語道断なのです。

 

考えてみれば、

宗教も学問も

人が幸せに生きるための術を探すものなので、

その求道者本人が

幸せを感じていないというのは、

本末転倒です。

 

親鸞は

結婚して子どもも儲けたし、

農業もして民とともに暮らしました。

 

僧が結婚することは

女犯

と呼ばれ、

当時は立派な罪です。

 

そのために、

親鸞は

破戒僧とも売僧とも言われました。

 

しかし、

彼は、

仏に感謝し、

南無阿弥陀仏

と唱えれば、

例え、

求道者でなくても、

心穏やかに幸せに生きられることを

身をもって人々に示したのです。

 

凄い勇気と信仰心ですね。

 

他にも、

仇敵をどう考えるか?

虚栄とは?

などいろいろ幸せに生きるヒントが

あったのですが、

書き出すと長くなるので、

こういったことはまたの機会にします。

 

さて、

親鸞も常々唱え、

心の平安を実現するための念仏、

南無阿弥陀仏。

 

現代の言葉に置き換えれば、

ありがとうございます

かしら?

と思います。

 

私も親鸞のように...

とはいきませんが、

ありがとうございます

と唱えながら、

仏の慈悲にあずかりたいな

と思います。