お父さんもひとりの人間だった話
わたしが物心ついたころのお父さんは「お母さんを怒鳴る暴力振るう人」だった。幼稚園のお迎えの帰りお婆さんが道を遮って歩いている姿に大声で怒鳴ったりとにかく記憶があるのはお母さんを怒鳴り、物を投げ壁に穴を空けたり怒りに身を任せて暴れる父を見て育った。父の行為は、母だけに向けられていてわたしにはそんな行為はしなかったがそれを、幼稚園のころから見ていたわたし目線からみた父親は「怖い人」の何者でもなかった。今でも、鮮明に覚えているのはケンカをしてわたしたち姉妹を連れて家出したのはいいが、財布か何かを忘れて、母親に「取ってきて」と言われ姉だから、わたしに言ったのかわからないが震えながら死ぬほど怖い思いで家に戻ったけどあまりにも怖すぎて廊下までしか行けなかった。母親のいる車に戻ると、取りに行けなかったわたしを見て、ため息のような呆れたような役立たずみたいな表情をしていた。「取りに行けなくてごめんなさい」って自分を責めたのを覚えている。なので、父がとにかく怖かったわたしは家でも外でも、話すことができない子供だった。笑う、話す=怒られるという価値観ができてしまった。自分の気持ちや発言を全く言えない幼少期中学生のころは、本当に声が出なくなることが多く学校にも行けなかった。そのまま、大人になって弱い自分を隠したくて金髪にして厚化粧をし発言もわざと悪くしたりして無理して強いフリをするようになった。見た目が強そうになっても、心は幼少期のままで世界やこの現実が怖いものでしかなく自分のことがきらいで消えてしまいたかった。30代になっても、内面は変わらず父のことは大嫌いで恥ずかしい存在。わたしの人生はこうやって終わっていくんだろうなと思っていた時に変化せざるを得ない出来事が起こってから、「自分と向き合う」というフェーズに入っていった。そんな日々が数ヶ月経ったころお墓参りに行きたくなった。そこは、父親の親が眠る場所。行くたびに、新しいお花が添えられいつも手入れされていたお墓。そう感じながら、手を合わせているとひとつのビジョンが現れた。そんな体験は初めてだったがただ頭に流れる映像に身を任せると父がいつもお墓参りに来て手を合わせている姿父の今まで人生、父が親のことを想いお墓をキレイにしている姿、わたしを育てるために仕事をしている姿、悲しかった心、頑張っている姿父という、「ひとりの男」としても姿が映画のように流れだしわたしの目からボロボロと涙が止めどなく流れてきた。その時に、すべて勘違いだったのだと体感した。わたしはどれだけ彼のことを誤解していたのだろうどれだけ、自分ばかりの目線でしか見ていなかったのだろう彼が母に暴言や暴力を行うのは、きっと消化できない人間としての葛藤や苦しみがあったのだと弱い父は、母に当たることでしか表現できなくて怖い姿はいっぱい見たけど決して、わたしには暴力は振るわなかったことそれは、父が本当に悪人でないということわたしのお父さんは、「ただのひとりの男」だったのだと気付いた。それは、きっと数秒の出来事だったがお墓の前で、ご先祖様と繋がりビジョンを見せてくれた。その時から、父に対する恨みがウソのように消えてしまった。今でも、父は相変わらず子供みたいに怒っているがわたし目線では、お父さんはお父さんの人生を楽しんでいるんだとしか見れなくなった。今でも、父との関係は昔と変わらず会っても喋らないし、寄り付きもしないけど死んで欲しいというような恨みは一切消えた。そこからは、すべての人のことを「その人はその人の人生を謳歌していている」としか見れないようになった。例えば、虐待や自○、ヒステリックな人や色んな人世の中の全ての人間にマルを付けれるようになりもちろん、自分のこともそうで世界の見え方、捉え方が全く変わってしまった。どんなに辛そうでもどんなに悲しくてもどんなにしんどくてもその人は、その人のシナリオを楽しんでいるとしか見れなくなった。幼少期から、自分はどれだけ他人への期待と作り上げた価値観で世界を見ていたのだろうと笑けるしそんな時代があったことに感謝な気持ちがわく。そして、何より死ぬほど生きやすくなった。もう、世界がそのようにしか見れなくなったのだから。わたしは、この体験をするためにあの父を持ち、生きづらいシナリオ設定していただけ。あーー人生って全てが意味ある。人は体感レベルで知ったときに初めてわかるんだと思う。