映画を見ていて、必ず、悪者が出てきます。
その悪者を見ていると、何かしら嫌な感情が出ます。
だから、水戸黄門の映画のように、最後に、悪者がやっつけられると、気分がスッキリします。
ミロスを知って、悪者はいません。
みんな、自分の役割を演じているだけで、そこには、良いも悪いもないからです。
自分が選んだ親と環境で、その人の人生を送っているだけです。
悪者とは、自分にとって何なんだろうと思いました。
誰かを悪者にしないと、自分は救われないと思っていたからなのかなとも。
ミロスを実践していると、同じような感情が出てきます。
そんな時、「あっまた出てきた。もう終わったはずなのに」と思うことがありました。
冷たいと感じる感情は終わったはずなのに。
罪悪感の感情は、もう終わったはずなのに。
こうして、落ち込む、自分を責めるというパターンを繰り返していました。
しかし、プレゼント。今・現在こそ、プレゼントなのです。
今出てきた感情は、今の最高のプレゼントです。
過去に出た感情とは全く違う、今のプレゼントです。
今出てきた感情を感じて、「あっそうか」と受け取る。
これが、ミロスの実践です。
そんな時、「あっまた出てきた。もう終わったはずなのに」と思うことがありました。
冷たいと感じる感情は終わったはずなのに。
罪悪感の感情は、もう終わったはずなのに。
こうして、落ち込む、自分を責めるというパターンを繰り返していました。
しかし、プレゼント。今・現在こそ、プレゼントなのです。
今出てきた感情は、今の最高のプレゼントです。
過去に出た感情とは全く違う、今のプレゼントです。
今出てきた感情を感じて、「あっそうか」と受け取る。
これが、ミロスの実践です。
元々、私達は存在で、自分基準に生きています。
自分基準と言っても、他者がいてくれてこその自分基準です。
他者が、私を映してくれてこそ、自分が解ります。
しかし、往々にして、他者と自分を分離して、他者 基準になってしまいます。
他者の顔色、言動、雰囲気、後ろ姿によって、左右されてしまいます。
ミロスを知った今、あっ今、他者の顔色で動いているなと、客観視することができます。
同時に、本来の自分に戻れます。
自分基準と言っても、他者がいてくれてこその自分基準です。
他者が、私を映してくれてこそ、自分が解ります。
しかし、往々にして、他者と自分を分離して、他者 基準になってしまいます。
他者の顔色、言動、雰囲気、後ろ姿によって、左右されてしまいます。
ミロスを知った今、あっ今、他者の顔色で動いているなと、客観視することができます。
同時に、本来の自分に戻れます。