【目次】

1.水郷の街 桑名

2.最後の藩主は流転の貴公子

 

1.水郷の街 桑名

    (木曾三川と桑名:ウイキペディアから)

 三重県桑名市は伊勢平野の北端に位置し、木曾(きそ)三川(さんせん)(木曽川、長良(ながら)川、揖斐(いび)川)を挟んで濃尾平野を望む。名古屋から25kmほどの距離で、特急列車なら20分程度で着くことができる。伊勢の国の東の玄関口として、江戸時代には東海道の宿場町、城下町として栄えた。桑名の由来はこの地の豪族・桑名首の名前から来たらしい。『日本書紀』に壬申の乱の際、大海人(おおあまの)皇子(おうじ)(後の天武天皇)が桑名郡家(くわなこおりのみやけ)に宿泊したとの記述があるので、7世紀ごろにはこの地は「くわな」と呼ばれていたのであろう。

    (宿場町の名物 安永餅:桑名観光サイトから)

 現在の桑名の代表的な産業は鋳物工業である。「東の川口、西の桑名」と言われ、30を超える鋳物工場に1,300人以上が働いている。この歴史は古く、初代桑名藩主の(ほん)多忠(だただ)(かつ)が、鉄砲の鋳造を始めたことに由来する。梵鐘や灯篭などの伝統的鋳物産業も健在である。現在、製造されている鋳物品は日用品のほか、土木用の資材や、農業機器など多種多様である。

 

 本多忠勝は、徳川家康の重臣で、徳川四天王、徳川十六神将、徳川三傑にも数えられる武将で、生涯一度も戦で負けたことが無いと伝わる。慶長6年(1601年)、桑名10万石を与えられると、早速、街づくりを始め、同業者を集めて「紺屋町」「鍛冶町」「魚町」「伝馬町」「寺町」などと言う現在まで続く地名の始まりとなった。これには、河川の改修を含む大掛かりな工事を伴い、「慶長の町割り」と呼ばれている。

   (初代桑名藩主 本多忠勝:ウイキペディアから)

 桑名を代表する名産品はがあげられる。「その手はくわなの焼き蛤」という言葉遊び・洒落(しゃれ)言葉(ことば)地口(じぐち))になるほど有名で全国に知られている。現在、日本で流通している蛤の9割ほどは「シナ蛤」という品種が中心になっているが、桑名の蛤は「ヤマト蛤」という日本古来の希少品種で、滑らかな舌触りに旨味たっぷりで生食も可能な絶品である。木曽三川の河口域が漁場で、江戸時代には将軍家に献上されてきた。焼き蛤、酒蒸し、お吸い物、など様々な食べ方がある。焼き蛤は弥次さん、喜多さんでおなじみの東海道中膝栗毛でも紹介されている。

 

        (名物 焼き蛤:ウイキペディアから)

 筆者も焼き蛤を味わうために桑名を訪問した。桑名駅東口から徒歩で5分程度の老舗、「丁子屋(ちょうじや)」を訪ねた。創業は天保14年(1843年)、魚の商いから始めた180年の歴史を持つ。店では松ぼっくりを使用した焼き方にこだわっているという。同店のHPによると、江戸時代の本草書『本朝食鑑』(1596年刊行)には「炙食(しゃしょく)するに方法あり、松毬火で炙ったものが上く、稲草火・炭火で炙ったものがそれに次ぐ」と記されている。これを研究し、試行錯誤の末に「松ぼっくりを使った焼き蛤」を開発した。松ぼっくりで焼いた蛤は、煙で燻されたかたちになって、ふっくらとしあがるのだという。蛤尽くしコースでは、このほかにも刺身や酒蒸し、時雨茶漬けなど、蛤のうまさをたっぷりと味わえるものとなっていた。

 

 

2.最後の藩主は流転の貴公子

  (最後の桑名藩主 松平定敬:ウイキペディアから)

  桑名藩は関ヶ原の戦いの後、本多忠勝が10万石上総(かずさ)大多喜(おおたき)より移封して始まった。忠勝・忠政父子の統治は17年、孫の忠刻(ただとき)は家康の孫の千姫(豊臣秀頼室で大坂落城の際に助け出された)と結婚したが、元和3年(1617年)姫路に移封となった。代わって家康の異父弟、松平(久松)定勝が伏見より桑名に入り、以後5代この地を治めた。宝永7年(1710年)越後高田へ移封となり、代わりに福山から松平(奥平)忠雅が入って、以後7代113年統治した。

 

 文政6年(1823年)、「三方領知替え」で武蔵(むさし)(おし)へと移封となった。(おし)阿部(あべ)正権(まさのり)は白河へ移封、白河に移っていた久松松平家の定永が再び桑名に入ることになった。彼は寛政の改革を断行した老中、(まつ)平定(だいらさだ)(のぶ)の子で、この移動には彼の意志が反映していたものと言われる。定永-定和(さだかず)定猷(さだみち)と続いて、いよいよ幕末を迎えたのであった。定猷は26歳で亡くなり、その子定教は幼かったため、隣国の美濃の国高須藩の松平(まつだいら)(よし)(たつ)の7男定敬(さだあき)を養子に迎えた。こののち、桑名藩は幕末の荒波に巻き込まれてゆく。

 

 定敬(さだあき)は弘化3年(1847年)、美濃の国高須藩主の7男として江戸市ヶ谷の江戸藩邸で生まれた14歳の時、桑名藩に迎えられて藩主となり、従五位下越中守に任じられた。高須藩は小藩ではあったが、家格は高く兄に尾張藩主徳川慶(とくがわよし)(かつ)、一橋当主徳川(とくがわ)茂徳(もちなが)、会津藩主松平(まつだいら)(かた)(もり)などがおり、「高須四兄弟」の末弟であった。元治元年(1864年)4月、京都所司代に任命された。本来はもっと家格の低い譜代大名の就任が普通だったが、兄の会津藩主松平容保が京都守護職を拝命して、将軍の警護などにあたっていたため、断り切れず奇しくも兄弟での京都守護を担うことになったのである。

 (晩年の高須4兄弟、左から定敬、容保、茂栄、慶勝:ウイキペディアから)

 十四代将軍徳川家(とくがわいえ)(もち)とは同い年で、特に家茂は親近感を持ったようで、強い信頼を置いていた。それが京都所司代の就任に繋がってゆく。この時、定敬18歳、兄の容保は12歳年上だった。所司代の役目は「京都の治安維持と朝廷の守護」で、西国大名の監視監督も含まれていた。池田屋事件、それに起因して禁門の変、そして長州征伐と続いてゆく。慶応2年(1866年)7月には大坂城で将軍家茂が21歳の若さで病没し、8月には一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)が十五代将軍に就任する。

 

 幕府方は慶応3年10月、大政奉還で起死回生を狙ったものの、利あらず王政復古の大号令が発せられ、ついに鳥羽伏見の戦いに突入する。幕府方は藤堂藩の裏切りもあり大敗を喫してしまい、慶喜は容保と定敬を連れて開陽丸で大坂城を密かに脱出したのであった。江戸へ戻ると慶喜はひたすら恭順の姿勢に徹して、供奉してきた容保と定敬を遠ざけたのである。

五稜郭タワーから望む五稜郭

                 (転戦の果てに箱館五稜郭:ウイキペディアから)

 兄の容保は会津へ向かったが、桑名藩はすでに恭順に傾いており、定敬には帰るところがなかった。桑名藩の飛び地である越後・柏崎を始め、会津、米沢、仙台、箱館と転戦する。名も一色(いっしき)三千(みち)太郎(たろう)と名乗っていたという。流転のあげく、ついに降伏し、長い謹慎ののち明治5年(1872年)ようやく赦免された。余生は戦没者の供養などに費やし、日光東照宮の宮司を務めて、明治41年(1908年)61歳で波乱の生涯を終えた。桑名近隣の徳川恩顧の尾張藩、藤堂藩、彦根藩などの大藩がさっさと勤王派に鞍替えするなかで、流浪の果てまで幕府に忠誠を貫いた貴公子であった。きっと、筋の通った信頼できる人柄だったのではなかろうか。(以上)

 

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