東北新幹線が那須野原を抜け、速度を落とし始める頃、車窓の向こうに低い山並みと広い空が現れる。郡山である。福島県の中央に位置し、「陸の港」とも呼ばれてきたこの町は、東北と関東を結ぶ結節点としての機能を今も保っている。

 

 だが、駅に降り立った瞬間に感じるのは、単なる交通都市とは異なる、どこか開放的で落ち着いた空気だ。それはおそらく、この土地が「水」とともに再生した記憶を、今なお地中深くに蓄えているからだろう。

 

 まずは、駅前の高層ビル ビッグアイに登ってみる。郡山駅西口の再開発事業として、郡山市の財源によって複合ビルと位置付けられて建設された。

 

 地上24階・地下1階、高さ132.6m、福島県で一番高いビルである。ここからは広大な郡山盆地が一望できる。

 郡山の歴史を語るとき、避けて通れないのが安積(あさか)疎水である。明治初年、猪苗代湖の水を安積原野へ導いたこの疎水は、日本三大疎水の一つにも数えられる大事業であった。

 

 江戸時代までの安積原野は、火山灰質の痩せた土地で、水利に乏しく、広大でありながら生産力の低い荒野だったという。人は住めども豊かになれず、この地は長く「可能性を秘めた不毛の地」であり続けた。

 

 郡山駅からバスに乗り、疎水沿いへ向かう。車窓に流れる町並みは整然としているが、やがて視界が開け、水路と緑が現れる。安積疎水は、想像していたよりも静かで、穏やかな流れだ。

 巨大な国家事業の痕跡というより、むしろ土地に溶け込んだ生活の一部のように見える。この控えめな佇まいこそが、疎水が人々の日常に深く根を下ろしてきた証なのだろう。

 

 この疎水建設を国家事業として決断したのが、大久保利通であった。維新三傑の一人として知られる彼は、政争に明け暮れる政治家というイメージとは裏腹に、地方振興と産業育成を国家の根幹と考えていた人物である。

  (大久保利通)

 東北の遅れと失業を余儀なくされた士族たちを憂えた大久保は、猪苗代湖という膨大な水資源に着目し、分水嶺を越えて太平洋側へ水を引くという、当時としては前例の少ない構想を打ち出した。

 

 技術的困難、莫大な費用、そして反対意見。あらゆる障害があったにもかかわらず、計画は推し進められた。疎水工事には、オランダ人技師ファン・ドールンの知見も活かされ、近代土木技術が本格的に導入された。

   (ファン・ドールン)

 大久保利通は紀尾井坂で工事半ばで暗殺され、その完成を見ることはなかったが、彼の構想と決断がなければ、郡山の姿はまったく違うものになっていたに違いない。

 

 疎水沿いを歩いていると、時折、地元の人が犬の散歩をしていたり、ベンチで休んでいたりする。観光地然とした派手さはないが、水音と足音だけが静かに重なり、心が落ち着いてくる。

 

 明治の開拓期、この水を初めて見た人々はどれほどの希望を感じただろうか。久留米や会津などから移住してきた旧士族たちは、刀を鍬に替え、慣れぬ農作業に身を投じた。疎水の水は、彼らの生活と誇りを支える命綱だった。

 

 安積原野が水田へと変わり、郡山は急速に発展していく。やがて商業が興り、鉄道が通り、町は東北有数の拠点都市へ成長した。

 

 その過程で形成された郡山の風土は、開拓者精神と実務的合理性が混ざり合った、どこか実直な気質を感じさせる。

 

 夏は暑く、冬は冷え込む盆地特有の気候だが、四季の輪郭ははっきりしており、稲穂が風に揺れる風景には、この土地が得た豊かさが凝縮されている。

 

 町へ戻り、開成山公園を訪ねる。桜の名所として知られるこの公園も、安積疎水の完成と深く結びついている。

 隣接する開成山大神宮は、伊勢神宮の分霊を勧請して創建されたもので、国家事業の成功を神に報告し、開拓の精神的支柱とする意図があったという。

 

 境内に立つと、都市公園の中にありながら、明治の人々の切実な祈りが今も残っているように感じられる。

 夕刻、駅前に戻り、郡山名物のクリームボックスを求めてパン屋に立ち寄る。厚切りの食パンに、甘いミルククリームがたっぷりと塗られた素朴な菓子パンだ。一口かじると、甘さの奥にどこか懐かしさがある。

 

 華美ではないが、力強く、腹にたまる。この味は、開拓地で求められた「確かな栄養」と「小さな幸福」をそのまま受け継いでいるように思える。

 また、地元郡山には代表的な菓子店が2つある。「ままどおる」で有名な三万石と、「薄皮饅頭」で名高い粕屋だ。どちらも材料が良いので賞味期限が短いのだ。

 夜はイカニンジンや鰊の甘露煮を摘みに地酒を一杯。猪苗代湖水系の清冽な水で仕込まれた酒は、派手さはないが、すっと体に染み込む。

 

 安積疎水の水が田を潤し、米を育て、酒となって人を温める。その循環を思うと、疎水は単なる土木構造物ではなく、郡山という町の血流そのものだと実感する。

 翌朝、再び疎水のほとりを歩く。朝の光を受けて、水面がきらりと光る。明治の構想は、今も確かに生きている。大久保利通の描いた未来は、理念としてではなく、日常の風景として、この町に定着した。

 

 郡山を旅するということは、水の流れに沿って、日本の近代化の一断面を歩くことでもある。静かだが力強いこの町の佇まいは、安積疎水がもたらした「持続する近代」の姿を、今も変わらず私たちに語りかけている。(了)