1.埼玉の仙境 秩父

 

 埼玉県秩父市は県西部に位置し、人口約6万人を擁する秩父地方の中核都市である。秩父盆地の中央部にあり、西部の山岳地帯は秩父多摩甲斐国立公園に指定されている。荒川の上流が市域を東西に流れている。県境を接する自治体は群馬、長野、山梨、東京の4都県に及び、市町村になるとその数はさらに多い。

 

 秩父へは西武鉄道が便利である。東京方面からだと池袋駅から新型特急ラビューに乗れば、乗り換えなしで約80分足らずで西武秩父駅まで運んでくれる。車ならば関越道の花園インターから国道140号線を1時間走ると市街に到達できる。秩父市内には名所・旧跡には事欠かない。中でも「秩父三社」は関東屈指のパワースポットとして人気が高い。今回はこれをぜひ紹介してみたい。

 三社とは秩父神社、宝登山(ほどさん)神社、三峯(みつみね)神社を指す。秩父神社は秩父地方の総鎮守で創建は2千年前とされている。現在の社殿は徳川家康が寄進したもので見事な装飾は、埼玉県の有形文化財に指定されている。境内の見どころはいくつかあるが、面白いのは「お元気三猿」である。左甚五郎(ひだりじんごろう)の作で、同様のものが日光にもあるが、これは「見ざる、言わざる、聞かざる」として知られている。これに対して秩父のそれは「よく見て、よく聞いて、よく話す」というもので「お元気三猿」と呼ばれている。鮮やかな色彩は見るものを引き付けてやまない。

        (お元気三猿)

 宝登山神社は荒川の川下りで有名な長瀞からほど近い山麓に鎮座する。日本武尊が山登りの途中に火事に遭った時、山の神の使いとして巨犬があらわれ火を消した伝説にちなみ、火止山(ほどさん)と呼ばれるようになったという。山頂の奥宮へはロープウェイで行くこともできる。火災をはじめとする厄除けで有名だが、宝の山に登るという意味で商売繁盛の御利益を願う人たちの参拝も多い。

         (三峯神社)

 三峯神社は標高1100mという高山の中に鎮座する霊験あらたかな神社である。秩父鉄道の終点、三峰口駅からバスで1時間、断崖絶壁の難路はスリル満点、途中ダム湖の堰堤上も走ってゆく。冬場は積雪と凍結で、参拝も決して容易ではないだろう。三峰とは雲取山、白岩山、妙法ヶ岳の3つの山を指し、3社の中で一番奥地にある。入口の「三つ鳥居」という珍しい形の鳥居の左右に鎮座うるのは オオカミである。昔、この霊力が信仰されて霊地として栄えたのであった。極彩色の拝殿の前には樹齢800年を超える2本の杉の御神木が立つ。ここは県下屈指のパワースポットであり、多くの人がそこで願いを唱えていた。

 筆者は観光バスの「秩父三社めぐりツアー」で行ったのだが、途中の長瀞の茶店で食べた秩父のソウルフードをひとつ紹介しよう。山深い秩父地方では「小昼飯(こじゅうはん)」といって、農作業の合間などに小腹が空いたときに食べる郷土料理がいくつかあった。「みそポテト」はおやつ・おつまみの定番で、揚げたじゃがいもに甘辛い味噌だれを絡ませたもので、ホクホク感がたまらない。

       (みそポテト)

 

2.武甲山、身を削って秩父を救う

 

 秩父地方はかつて知々夫国と呼ばれ、早くから国造に支配されていた。7世紀ごろには隣国の武蔵と統合されて武蔵国となったようである。8世紀初め(708年)に、市内の和同遺跡付近から和銅(自然銅:純度が高い)が採掘されると、これを記念して我国最初の流通貨幣である和同開珎(わどうかいほう、わどうかいちん)が作られたとされる。秩父神社の門前にはこれに因んだ和銅最中という和菓子も販売されていた。江戸時代になると、木材や絹織物が盛んになり、秩父銘仙や秩父紡ぎが名高い。銘仙は鮮やかな朱染めの絹織物で秩父のほか、伊勢崎、足利などで作られた。もともとは売りものにならない自家用の紬をさしていたが、明治以降身制が撤廃されると庶民の間にも絹織物が普及していったのであった。

 

 1878年(明治10年)、西南戦争が終結すると、戦争遂行のために発生したインフレをおさえるため、1881年(明治14年)10月大蔵卿に就任した松方正義は緊縮財政を実行した。この時、農業部門では深刻な不況となった。農作物価格の下落が続き、地域経済は困窮を極めたのである。さらに、1882年(明治15年)フランスのリヨン生糸取引所で生糸の大暴落があって、国内の生糸価格もこれに連なって大暴落した。これは養蚕の盛んな秩父経済に決定的な打撃となった。養蚕農家は毎年の売上代金を担保に運転資金を借り入れていたため、忽ち首が回らなくなりそこへ銀行や高利貸しが介入して社会不安が高まっていったのである。

 

   (自由民権運動:演説会)

 1884年(明治17年)10月31日から11月にかけて、秩父の農民や士族が政府に対して、租税の減免・借金の据え置き等を求めて大規模な武装蜂起を起こしたのであった。数千人規模の騒動で群馬県や長野県にも波及していくことになる。政府は軍を派遣して漸く鎮圧したが、これが世にいう秩父事件である。このため養蚕を基幹産業に据えた秩父経済はますます疲弊してゆくことになったのでる。

 

 これを救ったのが武甲山(ぶこうさん)にほかならない。秩父市街地の南東に聳えるこの山は標高1304mの独立峰で、日本二百名山のひとつに数えられる。日本武尊が東征の成功を祈願して、武具や甲冑を奉納したことが名前の由来とされている。武甲山の北側斜面は石灰岩で被われており、採掘が盛んに行われている。古くから漆喰の原料として採掘は行われていたが、開発が本格化したのは明治に入ってからで、セメントの原料として大規模に採掘が開始された。武甲山の石灰岩は日本屈指の高品質で採掘可能な量は4億トンと推定されている。その採掘法は山を階段状に削る「ベンチカット」と呼ばれる露天掘りで、1940年(昭和15年)秩父石灰工業が創業して以来、山の姿も大きく変貌して、遠くから見ると植生がなく白い岩肌がピラミッドのようにも見える。

 1900年(明治33年)には標高1336mとされたが、山頂付近でも採掘が開始されて、2002年(平成14年)に三角点も移動して、山頂の標高も1304mと以前よりも32m低くなった。ここで生産された石灰岩はセメントの原料となり、高度成長期の建設業をはじめとする日本の産業基盤を支えることになった。また、養蚕業の衰退で疲弊していた秩父の地域経済を活性化させる役割を担ったのである。巨大な白いピラミッドは自らの身を削ることで地域を支えたのだった。(以上)

 

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