1.  はじめに

 四国・香川県の西部に城下町として、また金比羅参りの船で賑わった港町として栄えたのが丸亀である。金比羅に向かう丸亀、多度津、高松、阿波、土佐伊予の五街道の中でも一番賑やかだったという。市街地の中心に聳える丸亀城は海抜66mの亀山を中心に、外堀と内堀を巡らした平山城で、慶長2(1597)年、讃岐の国守であった生駒親正が高松城の支城として築城したものである。この城は日本一高い石垣の城として有名で、裾は緩やかで上部に行くほど垂直に近い作りで「扇の勾配」と称されている。小ぶりの天守は現存する木造12天守のひとつで、眼下には讃岐平野、遠くには讃岐富士と呼ばれる飯野山を望むことができ眺望はすばらしい。

          丸亀城の石垣

 この丸亀に幕末、罪を得て20年以上にわたって幽閉の身となった男がいた。幕臣、旗本であり12代将軍徳川家慶(いえよし)の時代、老中水野忠邦の下で天保の改革を推進した鳥居甲斐守耀蔵(とりいようぞう)である。この名を聞くと多くの歴史家は顔をしかめる。何となれば彼こそ、日本史上の名立たる大悪人とされてきたからである。蛮社の獄で開明的な洋学者を弾圧し、町奉行としては市中の取締りを強化したので、甲斐守耀蔵をもじって「妖怪(耀甲斐)」と恐れられ、また嫌われたのであった。

   遠山金四郎

 改革が失敗し忠邦の失脚後、弘化2(1845)年、讃岐国丸亀藩にお預けとなり、以後23年間幽囚の身となったのであった。南町奉行の時、北町奉行だった遠山景元(金四郎)が改革に批判的で庶民の人気が高かったことから、金さん(善)に対して、耀蔵(悪)というイメージが定着してしまったのだった。泉下のご本人にとっては誠に不本意な結果になったのだが、本当のところはどうだったのだろう。23年間の幽囚にもめげずに、彼は明治に改まった後に江戸に戻って来たのだった。この不屈の闘志を見ると、決して大悪人ではなかったのではなかろうか。今回は明治まで生きた彼に焦点をあてて、従来のイメージに左右されることなく、その本当の姿を明らかにしてみたいと思う。

 

2.  耀蔵の生涯

 それでは耀蔵の生涯をざっと辿って行くことにしよう。彼は寛政8(1796)年11月24日、幕府の大学頭を勤めた儒学者林述斎(じゅっさい)の4男として生まれた。のちに同じ旗本の鳥居成純(2,500石)の養子に迎えられた。父の述斎は寛政の改革にあって文教面を担当して、昌平坂学問所の充実など幕府における儒学教育を積極的に推進していた。文政6(1823)年2月初めに幕府に出仕して中奥番となり、こののち徒頭、西の丸目付、次いで本丸目付と順調に昇進していった。天保9(1838)年目付として大塩平八郎の乱を処理して、翌年蛮社の獄(ばんしゃのごく)を通して老中水野忠邦の信頼を得た。同12年(1841)年、江戸南町奉行に抜擢されて市中の取締りを強化し、水野の下で天保の改革を推進してゆくことになる。この間,勘定奉行も兼任し、従五位甲斐守に叙任し500石を加増されている。

 

 天保14(1843)年、水野は上知令(あげちれい)を発布して、江戸・大坂10里四方を幕府の直轄領として、そこにいる大名・旗本を他国へ移そうとした。これには大名・旗本・領民から激しく反対され水野失脚の要因となったのだが、この時耀蔵は水野を裏切り反対派の立場に立ったのである。間もなく改革は失敗し、水野は辞任したが耀蔵は役職に踏みとどまることができた。

 

 ところが、半年後に起こった江戸城の火災に対して後任の老中達は上手く対応できず、将軍家慶から再び水野に声がかかった。復活した水野は裏切った耀蔵を許さず、弘化2(1845)年2月、全財産没収の上、肥後人吉藩に預けられたのであった。その後、出羽岩崎藩を経て、10月讃岐丸亀藩へ預け先が変更されたのである。のち、明治政府に恩赦を受けるまで実に23年の長きにわたる幽閉の身となったのであった。丸亀では厳しい監視がついたが、耀蔵はこれによく耐えた。東京と改称された江戸に戻ったのち、明治6(1873)年10月3日、多くの親族に看取られながらその生涯を終えた。享年78歳だった。

 

3.  天保の改革の真実

 それでは、耀蔵が活躍した天保の改革を見てゆくことにしよう。

改革の主たる目的は①綱紀粛正・奢侈禁止、②物価の引き下げ、③農村の再生であった。贅沢の禁止を徹底させるために働いたのが耀蔵である。目付にはぴったりの人物であったが、同心を使ってお客に化けて禁制品を求めるなど、おとり捜査の技法を駆使したのである。この結果、三都の景気はすっかり沈滞し、民衆からは極度に嫌われることとなった。また、物価安定のために株仲間解散令を発布するが、これは流通システムを混乱させただけで、かえって物価は上昇してしまったのである。飢饉などで荒廃した農村を回復させるために、江戸の出稼ぎ人の帰農と新たに農村からの移住を禁止する人返しの令も、大きな効果は無かったのである。

    水野忠邦

 このように見てくると、もともと水野が描いた改革の「絵」がそもそも間違っていたのではないか、とも思えるのである。すでに19世紀の半ばには商品経済が発達して、米を基盤とする幕府運営は困難だったのである。そこへ、いくつかの対処療法的施策では全く解決できなかった。志が高い水野と馬の合った耀蔵は、水を得た魚の如くその職務に単に忠実だったと考える方が適切ではなかろうか。

 

4. 幽閉23年の果てに

 吉祥寺(きちじょうじ)は東京文京区駒込の曹洞宗の寺院である。吉祥寺と聞くと中央線の武蔵野市にある駅を思い起こすが、これは明暦の大火に際して駒込の住民が郊外へ移転したことに由来する。この寺には仏教と漢学の研究のために人材育成をした学寮の旋檀林(せんだんりん)が設けられ、大いに繁栄したという。

         鳥居耀蔵の墓

 ここは江戸時代、いくつかの譜代大名・旗本の菩提寺になっている。明治の世まで長生きした耀蔵も今は静かにここに眠っている。23年にも及ぶ幽閉にも屈しなかったのは、自分自身は決して間違っていない、との強い信念の表れであったのだろう。ここまで頑なな態度には、旗本の矜持というか、かえって清々しさすら感じるのである。残念なのは、もう少しばかり柔軟さが彼には欲しかった、というところだろうか。このエッセイの題となった川柳「金比羅へ いやな鳥居を奉納し」は耀蔵が丸亀に預けられた際に詠まれたものである。すっかり悪役になった彼の寂しい墓の近くには、八百屋お七と吉三郎の比翼塚があって、こちらには小さな花がそっと手向けられていた。(以上)