•  最北の街・稚内

 

 

 北海道・宗谷地方に位置する稚内市はアイヌ語で「ヤム・ワッカ・ナイ」(冷たい水の湧く沢)が語源とされる。東はオホーツク海、西は日本海に面し、宗谷海峡を隔てて43km先にはサハリン(樺太)のクリリオン岬があり、晴れた日には遠く島影を望むことができる。

 

  1854年の日露和親条約により,千島は択捉(エトロフ)・得撫(ウルップ)両島の間を国境としたが、樺太は両国人の雑居・共有であった。そのため、紛争が絶えず、明治維新後,開拓長官黒田清隆の意見により、1875年調印、日本は樺太を放棄し,千島全島を日本領とした(千島・樺太交換条約)。その後、日露戦争終結後のポーツマス条約で北緯50度以南の樺太が日本領となり、太平洋戦争終結の1945年までの40年間支配することとなる。

 

 樺太庁が豊原(ユジノサハリンスク)に設置され、稚内と大泊(コルサコフ)を結ぶ航路として、1923年に

航路が開設された。1945年8月9日、日ソ中立条約を破ったソ連軍が樺太に侵攻したため、13日から本土への緊急疎開がはじまり、ソ連の航行禁止令が出された23日まで続くのである。

 

  この間、8万人が稚内に渡ったという。現在、人口3万人の稚内市は漁業、水産加工業、酪農業、観光が経済の柱となっている。中でも観光資源には事欠かない。郊外には利尻礼文サロベツ国立公園の大自然を体感できる。過疎に苦しみながらも、稚内は誰もが一度は訪ねてみたいロマン溢れる街なのである。

•  稚内こそが人生の原点

  私が稚内を訪れたのは8月のはじめ、それでも現地の気温は最高でも22度だった。稚内港の北防波堤

ドームはインスタ映えするので、いつも観光客が写真を撮っている。全長477m、高さ13mの防波堤で、強風と高波を避けるため、1931年から5年かけて完成した。

 

  半アーチ型のドームに70本の古代ローマ風の円柱が並ぶ重厚なデザインは印象的で、2001年に北海道遺産に指定されている。この傍らに「大鵬幸喜上陸の地記念碑」が建てられている。これは昭和の大横綱「大鵬関」が、樺太から引き揚げる際に稚内に上陸したことを記念するもので、2020年に建立された。

 

  彼はウクライナ人の父ポリシコ・マリキャンと日本人の母キヨの間に5人兄弟の末っ子(三男)として、1940年に樺太の港町・静香(ポロナイスク)で生まれた。共産主義を嫌ったポリシコは樺太に渡り、1926年洋服店に住み込みで働いていたキヨと結婚した。二人は牧場を経営し、次第に規模を拡大していったのである。

 

  1945年8月8日ソ連は対日宣戦布告をし、翌日南樺太に侵攻した。樺太庁は婦女子や老人を優先的に本土に疎開させるため、大泊港の小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3隻を使ってこれを進めた。樺太に父を残して大鵬一家も大泊へと向かい、8月20日1500名の乗客とともに小笠原丸に運よく乗船することが出来たのである。

 

  同船は稚内に寄港したのち小樽に向かったが、キヨは船酔いが激しく、止む無く稚内で一家は下船した。8月20日、稚内を出港した小笠原丸は留萌沖でソ連の潜水艦L-12により撃沈されたのであった。他の2隻もほぼ同じ海域で潜水艦の攻撃を受け、第二新興丸は大破、泰東丸は沈没したのである(三船殉難事件)。この事件で1,700名の方が犠牲になったとされる。大鵬は小笠原丸に乗船していたが、稚内で下船したため辛うじて難を免れたのであった。のちに昭和の大横綱となった大鵬は稚内を度々訪れて、「稚内が俺の人生の原点」と語ったという。

 

  太平洋戦争の終戦にあたって、ソ連には北海道侵攻の計画があったという。8月16日、スターリンは米国のトルーマン大統領に書簡を送り、留萌釧路以北の北海道を占領する許可を求めていた。これは米国が拒否したものの、この計画のために留萌方面にソ連潜水艦が展開しており、これにたまたま航行していた3船が遭遇したものと見られている。

 

  スターリンの北海道侵攻計画は千島列島最北のでの日本軍の激しい抵抗などにより、22日ついに断念することになった。ロシアがウクライナに侵攻してすでに2年が警戒して、戦闘は依然継続している。大鵬の父親はウクライナ人で、彼は「ウクライナの血は誇り」と語っていた。2013年1月、大鵬は72歳で亡くなり、11年の時が流れたが、大鵬自身は今の状況を見るにつけどのようなことを想うのだろう。(以上)