聖書 旧約:詩編 47編
    新約:エフェソの信徒への手紙 1章15節~23節
 
聖書朗読と説教音声は、以下のリンクからお聞きください。
 
 
 みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。
 
 今日は、少し早いですが、私たちの教会の創立記念日礼拝として、礼拝を守っています。
 私たちの伝道所は週報の表に書かれているように、1980年3月21日に創立いたしました。
 
 この世に建てられている教会の創立日をいつにするかというのは、いろいろな捉え方があります。
 私たちの属する日本基督教団が、正式に認可をした日を創立日とする教会があるでしょうし、そうではなく、教団認可の前に、すでに伝道を始めていたのだから、伝道を開始した日を創立日としている教会もあります。
 
 週報の表に書かれている創立日は、長老会記録が残され始めた頃。伝道所に残っている記録としては、1980年5月11日の記録が、長老会ではなく、役員会記録として残されている最も古い記録です。
 最初の記録を見ると、1980年4月の一般礼拝の平均出席者は、10.8名。教会学校は15名という記録があります。
 当時は峰伝道所という名前で、教団に認可される前から、宇都宮の東地区で、印南牧師により伝道が開始されていました。
 今年は、その時から数えて、40年目になりますので、私たちの教会は、創立40年と言うことで、今日の礼拝を守っています。
 
 また、記念誌の作成に合わせて、鹿沼教会等でお持ちになっておられた、過去のいろいろな記録をお預かりさせていただいています。記念誌を作る上で、これからその記録を整理しますので、教会創立のころの様子が、今保管している資料より、少し詳しいことがわかってくるかもしれません。
 
 さて、教会の創立日について、2種類の考え方で決めていると話しましたが、世間一般の企業や団体は、その組織が正式に誕生する。届出をした日を創立日とするでしょう。しかし、教会では、なぜ創立日の定義をはっきりと決めていないのでしょうか…?
 それは、教会の運営が曖昧だからということではありません。「教会」という言葉に、含まれている意味が、いくつかあることから来ています。
 聖書を読むと、「教会」という言葉は、新約聖書には書かれていますが、旧約聖書には書かれていません。
 歴史を遡(さかのぼ)って見るなら、イエスさまがこの世に来られた後。イエスさまが伝道をされた後から、「教会」という言葉が使われるようになったことがわかります。
 
 今日読んだ、エフェソの信徒への手紙にも、「教会」という言葉が出てきました。この世の中で、特に日本で「教会」という言葉を誰かに話したら、多くの人は、礼拝堂。教会の建物のことを話していると考えるでしょう。また、ある人は、教会に集ってくる人々。その「教会」の会員を指して「教会」と言っている、と受け取る人がいるでしょう。
 人々がそのように話すときは、目に見える教会。組織として成立している教会のことを言っています。その場合の創立日は、教団に正式に認可された日とするのが適切でしょう。
 
 ところが、「教会」という言葉には、もっと大切な意味が含まれています。週報にも書きましたが、「教会」という言葉は、ギリシア語の「エクレーシア」という言葉を日本語に翻訳した言葉です。
 そして、「エクレーシア」という言葉には、元々「呼び出された者」。という意味がありました。では、誰が誰を呼び出したのか。
 それは、十字架にかけられ、死んで葬られた後、復活されたイエスさま。キリストが、この世から呼び出し、集められた信仰者の群れ。それが、「エクレーシア」。「教会」と呼ばれるようになりました。
 
 また、神さまであるキリストから、呼び出された、信仰者のグループというように考えると、じつは、「教会」という言葉がなくても、似たような言葉が、旧約聖書にもあります。それは、「神の民」という言葉です。詩編47編10節に、
 「諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。」 とあります。
 アブラハムは、旧約聖書に登場する人物で、主なる神さまが、神さまを信じる人々を集め始める、最初に選ばれた人でした。
 アブラハムの子ども、孫、そしてその子孫たちが、やがてモーセという指導者に引き連れられて、エジプトを脱出し、神さまが約束された地。カナンに移動する、イスラエルという神の民。信仰者のグループとなっていきます。
 
 ユダヤ人について話す時、よく、「選民思想」という言葉が使われます。ユダヤ人は、自分たちだけがこの世界を創られた神さまから選ばれた民族であると考えているという思想です。
 その考え方は、旧約聖書に書かれている事柄から、この世界の中で、最初に神の民として、神さまを信じる人々として選び出されたのが、ユダヤ人だという考えです。
 
 そして、イエスさまがこの世に来られて、福音を語られ、人々がその福音を信じるようになると、ユダヤ人だけでなく、十字架にかけられ、私たちの罪のあがないとなってくださった方。そして、復活し天に昇って栄光を受けられたイエスさまは、ユダヤ人だけでなく、だれであっても、イエスさまを私たちの主である。救い主であると告白する人は誰でも、神さまが呼び集められた人々。
 その人々が、神さまから送られる聖霊によって、その信仰を与えられ、神さまを信じる者として呼び出された群れ。「教会」として誕生したと考えるようになりました。
 
 では、誰と誰が、神さまから呼び出された人であるか、ということを、わたしたち人間が正しく見分けることができるでしょうか?
 この人と、この人には、何か特別な印がついていて、見た目ですぐにわかるのであれば、その印がついている人が集まるところが、教会だと言えるでしょう。
 ところが、実際には、そんなことはありません。
 だれが、本当に神さまから呼び出されているのか、ということは、目で見てわかることではありません。
 聖霊を直接目で見ることができないように、だれとだれが、神さまから招かれて、礼拝の場所に集められているか、ということは、直接目で見て確認できることではないのです。
 けれども、罪を悔い改めて、福音を信じ、洗礼を受けられた方は、明らかに神さまによって呼び出されて、教会を作っている。教会の一員だと言うことができるでしょう。
 
 そう考えてみると、「教会」という言葉は、特定の場所や、毎週同じところに集まってくる人々だけに限定されていることではない、ということがわかってきます。
 この目に見えない、見ることができない「教会」のことを、「公同の教会」と呼ぶことがあります。私たちが、毎週礼拝の中で告白する信仰告白。使徒信条の中で告白する言葉として、「公同の教会」があります。
 「公同の教会」は、この世的な組織を言っているのではなく、天地を作られた創造主である神さま。救い主イエス・キリスト。そして、神さまから送られる聖霊を信じる人々すべて。世界中で私たちと同じ神さまを信じる人々が「公同の教会」と呼ばれているのです。
 私たちの教会が、教団登録以前の日を、創立日としているのは、その時から実際に伝道が行われ、礼拝が開始されていた。人々が礼拝するために一つのところに集まってきた。その時が私たちの教会の創立日だという信仰が、ここに示されているのです。
 
 では、神さまが呼び出された者が集まる「教会」とは、どういうものであるか。そのことが、パウロが書いた手紙。エフェソの教会に宛てた手紙の最初に。今日読んだ箇所に書かれています。
 
 一つ目のこと。17節から18節の始め。
 「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」
 神さまから呼び出された人には、神さまが「知恵と啓示の霊」が与えられます。知恵と言えば、ピンときますが、「啓示」という言葉になじみがない人がいるでしょう。
 「啓示」とは、神さまご自身が、自分はどういう者であるかを示してくださるということを言っています。
 神さまがご自身が、私たちに、神さまとはどのような方であるか。また、神さまが私たちをどれほど愛し、恵み、慈しんでおられるかを、神さまの方から教えてくださる。
 そして、私たちは、目には見えない神さまのその働きが、自分自身に働くようにと、「心の目が開かれるように」とパウロが祈っているのです。
 
 二つ目は、18節。
 「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」
 神さまから与えられる希望。その希望は、神さまを信じる「聖なる者たち」に与えられるものであり、「豊かな栄光に輝いている」とパウロは説明しています。
 「豊かな栄光」とは何でしょうか? それは、主イエス・キリストによって与えられる、罪の赦しと永遠の命です。
 神さまから呼び出されて教会へと集められたことで、わたしたちは、初めて主イエス・キリストによって与えられる、罪の赦しと永遠の命を知ることができるようになりました。
 
 三つ目のこと。19節。
 「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」
 パウロのこの言葉は、わたしたち、教会に集う者が、繰り返し聞かなければならない言葉ではないでしょうか。
 なぜなら、すでに洗礼を受け、信仰者とされた私たちに、日々働いている神さまの絶大な力。働きをどれだけ信じて、生活しているのか? そして、それがどれほど大きいものであるか?
 これは、なかなか実感として捉えることができないことであるからこそ、パウロは、そのことを神さまが私たちに悟らせてくださるようにと、祈っているのです。
 毎週礼拝に集ってきた時、礼拝の中で触れてくださる神さまをどれだけ心に感じることができているか? それは、何も神秘的な体験があるとか、新しい知識がどんどん入ってくるということではありません。
 聖書のみ言葉を聴くとき、讃美歌を歌っている時、祈りを共に合わせている時、説教の言葉を聞いている時。
 人それぞれに、受け取る時は違うでしょうが、今日の礼拝で、確かに神さまが、聖霊なる神さまとの出会いがあった。心に感じるもの、触れるものがあったと感じることができたか?ということです。

 もちろん、強制的に何かを感じてくださいということではありません。そっと心に触れてくださる神さまの声を、心静かに聞き取ることができているのか? ということであって、普段の生活のリズムのまま、礼拝に参加してしまうと、なかなかそういう思いに触れることができませんし、ましてや礼拝の途中で、礼拝以外のことを考えていると、神さまは私たちの心に触れることができないでしょう。
 今日礼拝が終わった後、何を食べようか、どこへ行って何をしようかという思いが、礼拝で神さまを拝むことよりも先に立ってしまったら、神さまが私たちの心に触れることができなくなってしまいます。
 
 そして、これら3つのことをなしてくださる神さまは、どのようなことを通して、これらのことをしてくださるかを、パウロは、20節、21節で語っています。
 「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、
 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」
 まさしく、アーメン。その通りですという、パウロの言葉でしょう。
 
 そして、最後、22節、23節で、「教会」について、パウロが話しています。
 「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」
 すべてのもの、すべての権威にまさる権威として、キリストが教会の頭(かしら)として私たちに与えられています。
 そして、その権威のもと、私たちの教会は、キリストの体となり、キリストが、聖霊なる神さまが満ちあふれていると、パウロは語っています。
 教会が、キリストの体であるということは、具体的な行動を、動くことができる体として、キリストを宣べ伝える人々として、この世において、私たち信仰者が神さまによって用いられていることを指しています。
 そして、私たちが、キリストを伝える時、自らの力で伝えるのではなく、神さまから与えられている聖霊の助けによって。聖霊が語らせてくれる言葉によって、聖霊によって導かれる信仰生活そのものによって、私たちは、主イエス・キリストを証しする者として立てられているのです。
 
 宇都宮の東地区において、伝道を始めて、40年という時間が過ぎました。この世の教会では、40年という間、様々な出来事があったでしょう。よいことだけでなく、苦しいことや、つらいこともあったでしょう。しかし、それらすべてのことを神さまはご存じです。そして、これまでの苦労は、すべて、今私たちが歩んでいる受難節の時。主のみ苦しみを覚える時とつながっています。
 この世にある教会は、やがて神さまによって、完成される神の国。この世の終わりの後実現する神さまの御支配の世界のひな形。モデルと言われています。
 苦しみがいつまでも続くのではなく、それは、今見ている希望に、栄光へとつながっています。
 これまで主に導かれてきた40年を感謝し、これからも歩んでいく主の道に希望を持って、力強く歩んで参りたいと願います。