聖書 旧約:サムエル記上 10章1節

    新約:ヨハネによる福音書 12章1節~8節

 

 みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。

 私たちは今、受難節。レントの時を歩んでいます。昨日、3月21日は、受難節が始まった灰の水曜日から数えて22日目でした。ということは、この主日は、受難節のちょうど真ん中あたりの礼拝になります。

 信仰生活を長く送ってこられた方にとって、受難節とはこういう時ですと話しますと、今までも繰り返して聞いてきた、と思われるかも知れません。しかし、私たち。今ここでみ言葉を取り次いでいる私自身も含めて、この時をしっかりと歩んでいるかを、振り返りつつ歩みを進めなければならないと思っています。
 そこで、受難節とはどういう時なのか。

 受難節は、イースター、復活日の前、日曜日を除く40日間と定められています。この時は、普段にも増して、主イエス・キリストが、十字架に架けられるため苦しまれたこと。そして、その苦しみが、「この私」のためであったことを覚えて過ごす時です。
 他の誰でもない、今ここに集っておられる方、一人ひとりが、主にとってかけがえのない、代えることができない存在として愛されたゆえに。「この私」のために苦しまれたことを覚えなければなりません。

 主の苦しみ。言い替えることを許していただけるなら、主の痛み。それをわたしたちはどれほど自分事として心に留めているでしょうか。

 今、新型肺炎が世界に広がっていることで、大変な状況になっています。そして、多くの医療従事者がそのことのために、24時間不眠不休で働いているということもニュースから聞いています。とても、大切な働きであり、まだまだ人手が足りないと言われても、専門家でなければ、お手伝いをすることもできないような状況です。
 過去に比べて、医療が日々進歩してきた今日(こんにち)にあって、病気を治すことがどれほど大変なことであるかを、わたしたちは毎日のように聞いているでしょう。
 ところが、どれほど医学が発展しても、なかなか病を負った人の苦しみを理解することができない、難しいことがあります。
 それは、体に感じる痛み。「痛い!」と思うことを医学的に分析し、それを理解してあげるということは難しいということです。

 同じ種類の病気にかかっても、人によって、病気を原因とした体の痛みの強さ、場所には違いがあります。そして、病気になった時、病院に行って、担当するドクターに自分の痛みを伝えても、なかなか理解してもらえないことがあります。特に、心に痛みを覚えると言う場合には、相手になかなか分かってもらえないことがあります。

 私自身のことで話しをすると、10年近く前のことだったと思いますが、その年のイブ礼拝に出かけようとした時、突然下腹が痛くなりました。それまでも、胃腸が荒れていたんだ時の痛さや、腕を脱臼した時の痛みなど、いくつもの痛みを味わってきましたが、その時の痛みは、じっとしていようとしても、じっとしていられない。寝ていれば治まるという痛みではありませんでした。横になっても、体を動かしていなければ、痛くてたまらないという状況。
 そこで、妻にお願いして、救急車を呼んでもらい、すぐに病院に連れて行ってもらいました。人生で初めて、救急車にのるという経験をしました。そして、病院について、診察してもらった結果、尿管に結石があることで痛みが出ている、ということがわかりました。そこで、直ぐに痛み止めが入った点滴をしてもらいました。
 痛みの原因は、病院に行ったことですぐに分かりましたが、その処置として、痛み止めの入った点滴をされても、なかなか痛みが治まりません。
 結石による痛みは、いくつもある痛みの中でも、非常に痛いものだということを後から知りましたが、とにかく痛い。点滴をしても痛い。
 痛みを感じている人間の痛さというのは、本人でなければ、なかなか理解することができないことであることを痛感させられました。
 今日来られている方の中にも、結石で痛みを覚えたことがある方は、その辛さがわかるでしょう。

 さて、受難節のことに戻りますが、主イエスが十字架で掛けられた時。いえ、その時だけなく、十字架に向かう道筋。私たちを救うために、神さまがご計画されたことを、一つひとつ受けて行かれるほど、その時が近づいているということをご存知で在れば在るほど、その痛み、苦しみがどれほどのものであったのか。
 ということは、私たちにはなかなかわからないことではないでしょうか。
 なぜなら、すべての人の罪を負われて、罪のない方が、死刑に処せられなければならない。しかも、その刑罰は、死刑の中でもとても大きな苦痛を伴うことになる十字架であった、ということ。
 イエスさまがただ一度限りの出来事として受けられた、十字架は、他の誰かが代わることができないことであったがゆえに、本当の意味でその痛みを、苦しみを、私たちが味わうことはできません。
 しかし、少しでも、イエスさまの苦しみを、痛みを共に担う者として、受難節の40日間を、聖書のみ言葉と、祈りによって私たちは過ごしていくのです。


 受難節に覚える苦しみということを話しましたが、先ほど話したように、今、世界中で新型肺炎が広がっています。また、その影響で、各国の経済に大きな影響が及んでいます。人々の普段の生活が、普段通りに送ることができないという状況があります。

 イエスさまが、十字架に向けた受難の時を過ごされた時。その時は、それまで、ガリラヤやユダヤの各地で福音を告げられた時とは異なり、神さまの御心を知れば知るほど、苦しく重い時を過ごされたことでしょう。
 しかし、十字架での死の後、墓に納められ、3日目に復活された時。復活日の朝は、私たちにとって、新しい希望が、新しい約束が完成された時でした。
 苦しみの後に、素晴らしい出来事が起きた。そのことを思い描きつつ、今の時を過ごすことがなければ、私たちは、悲しみの中に埋もれてしまいます。
 主イエスの出来事は、苦しみの後、私たちに希望を与える出来事として、完成されました。
 今この世界で起きている出来事を、そのまま主の苦しみと比較したり、置き換えたりすることは出来ませんが、この世界のすべてを「よいもの」として創ってくださった主なる神さまが願っておられることは、この病が一日も早く終息を迎えること。また、このことを通して、人々の心が、思いが、神さまに向けられることではないかと思います。

 都会の教会や、特に多くの人が集まる教会では、今しばらく、主日礼拝の時。多くの人が、ある時間一箇所に集中して集まることを避けるために、礼拝を休む判断をした教会があります。その教会の行動を批判することはできませんし、一方で、日曜日礼拝はどんなことがあっても、やみくもに行い続けるということが、結果として良かったかどうかということは、この時が過ぎるまでわかりません。
 しかし、今言えることは、私たちは、主によってこの日、この場所に集められて、共に礼拝を守ることができたという恵みをいただいているということです。

 主の祈りの始めに、「願わくはみ名を崇めさせたまえ」と祈ります。ふだん何気なく口にしている言葉と思いますが、この言葉の意味が、今こそ、どれほど大切な言葉であるかということを私たちは思い返さずにはいられないでしょう。病気が広がる時だけでなく、過去の歴史において、礼拝を守ることができない、政治的圧力によって礼拝ができない時もありました。
 それ故、主の祈りの言葉は、最初から最後まで、すべてその意味をかみしめつつ、心からの祈りとして献げなければならないでしょう。

 さて、ずいぶん話しが脱線してしまいましたが、福音の言葉。ヨハネによる福音書12章1節から8節の出来事。
 主イエスは、エルサレムの近くのベタニアで、以前、墓の中に葬られていたところからよみがえらせたラザロが住む家。その家にいたラザロの家族のマリアが、客人として迎えたイエスさまの足に、非常に高価な香油を塗る、という出来事がありました。

 当時、ユダヤの習慣として、客人に敬意を示す行為として、香油を塗るということはありました。当時の香油はオリーブ油に香料を混ぜたものでした。
 ユダヤの人々にとって、オリーブ油は馴染みの深いものでした。オリーブ油は多くの料理に使われただけでなく、化粧品や医薬品として使われ、また、灯火用としても使われていました。
 また、王や祭司が任命される時、頭にオリーブ油を注いで、聖別のしるしとして使われたりもしました。
 サムエル記上 10章1節に書かれている油注ぎの出来事は、イスラエルに立てられた最初の王。サウルが預言者サムエルから聖別のために油を注がれた出来事です。

 さて、ラザロの家にいたマリアは、自分の兄弟を生き返らせてくれたイエスさまに対する経緯を示すために、高価な香油。ナルドの香油をイエスさまの足に塗って、自分の髪でその足をぬぐいました。

 ナルドとは、ヒマラヤ原産の植物の名前です。アラビア人と呼ばれた、中東地域の商人が、インド産の植物を香料として持ち帰り、オリーブ油と混ぜて、香油として売りました。この香油は、「アラバスター」と呼ばれる石膏の一種でできた壺に封印され、使う時に、その壺の一部を壊して使いました。
 マリアはその香油を一リトラ。リトラは、重さの単位で、約326gと、聖書の後ろの換算表にありますので、大きめのマグカップ一杯分をすべてイエスさまの足に塗りました。

 香油というのは、今で言う香水と同じぐらい強い香りを出しますので、香水をマグカップ一杯分注いだとあれば、どれほど大きな部屋であっても、また、民家なら、その家中がその香りでいっぱいになったということは、想像しやすいでしょう。
 それだけの量の香油ですから、とても高い値段でした。しかし、マリアだけでなく、死からよみがえったラザロもまた。そして、マリアの姉妹のマルタも、マリアがした行為は、家族を死から救ってくれたイエスさまに対する感謝の気持ちであり、その思いが、家中に広がったと捉えてもいいでしょう。

 けれども、その思いを理解することができず、その行為を非難する人物が一人いました。「後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」と、ヨハネは書いています。この言葉は、最新の訳である、聖書教会共同訳聖書では、「イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダ」とあり、ユダの心は、すでにイエスさまから離れていたと、訳されています。 ユダは、マリアの行為を見て、その香油を三百デナリオンで売り、貧しい人々に施すべきだったと非難しました。

 1デナリオンは、当時の農民の一日分の給料ですから、三百デナリオンといえば、農民の一年分の給料と言ってもいいでしょう。
 それほど高価なものを、使えば無くなってしまうことに。使ったからと言って、何か素晴らしいことが起きるとは思えないことに、使ったことにユダは注意を向けたのです。

 ところが、ユダの言葉を聞いたイエスさまは、言われました。7節の言葉。
 「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」
 この言葉から、二つのことが分かります。

 一つ目は、神さまに対して、敬意を持って、信仰をもって行った行いを、神さまがだまって受け取ってくださった、ということです。 私たちが、神さまのことを話す時、全知全能の神さまと言う時があります。「全知全能」とは、すべてのことをご存知で、何も欠けることがないという意味ですから、だれかから何かをもらう必要はありません。しかし、そういう神さまであっても、信仰をもって私たちが神さまにすること。お献げするものを神さまは、喜んで受けてくださるということです。
 それがなければ、私たちが、感謝をもって献げますという、献金の意味が失われてしまいますから、心からの信仰と感謝をもって献げる献金を神さまは喜んで受けてくださるということです。

 そして、二つ目。イエスさまは、マリアがした行動は、客人に対する敬意という意味に留まらず、これから十字架で死を迎え、墓に納められることになるイエスさまの葬りの準備だと言われたのです。

 ヨハネによる福音書では、12章12節から、イエスさまが、受難を受けるためにエルサレムに入られることが書かれています。受難を直前に控え、イエスさまをねたむユダヤ人たちが、イエスさまを何とかしようという思いが強くなってきていた、その時に、イエスさまは、マリアが自分の葬りの準備をしていると言われ、ユダに話しました。7節、8節の言葉は、1節から続く文の中では、ユダだけに話しておられるように思いますが、実際には、12人の弟子たち全員がその場所にいたのでしょう。弟子たち皆に伝える言葉として、イエスさまは、御自身の死の時が近づいていることを教えられたのです。
 また、続く8節の言葉。
 「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
 この言葉は、誰に向けて語られているか。もちろん、その場にいた弟子たちに向けて語られた言葉でしょう。しかし、同時に、福音書を読むすべての人に向けて語られている言葉でもあります。
 なぜなら、私たちは、歴史の中にあって、神さまが計画されて2000年の昔に実行された、救いの計画。新しい契約を示された時から、やがて来る、終わりの日。終末の日が来るまでの間を生きています。

 主イエスのお姿を、今は、直接目にすることは出来ません。しかし、主から遣わされている、聖霊が私たちと共にいて、この礼拝をお献げしています。聖霊なる神さまが共にいてくださることで、この礼拝が、主なる神さまに献げる礼拝となっています。
 けれども、この世が終わりを迎えたら、その時、私たちは一人ひとりが神さまの前に呼び出され、裁きを受けなければなりません。その時、弁護者として立ってくださるのが、聖霊なる神さまであると、イエスさまは教えられました。
 そして、その裁きが過ぎてしまったら、神さまによって、罪の裁きを受けることになる人と共に、神さまがおられることはなくなってしまいます。
 終わりの裁きの時、罪ある者として裁かれた者と神さまとの関係が、そこで終わってしまうからです。
 ですので、そうなる前に、私たちは、イエスさまに敬意を表し、命を救ってくださる方として、礼拝を献げなければならない、ということが、ここで、主の言葉として語られているのです。

 礼拝は、主なる神さまを礼拝する場であると同時に、私たちが六日の歩みを止(と)めて、主なる神さまと出会う場でもあります。
 主なる神さまと出会う場所が礼拝であると言うこと。それは、神秘的な体験があるとか、熱狂的な思いがあふれてくるということではありません。
 そうではなく、礼拝に集い、聖書の言葉を聞き、賛美の声を上げ、共に祈り、み言葉の解き明かしを聞く時。人それぞれにその瞬間は違うと思いますが、一人ひとりの心にそっと触れてくださる神さまの愛を感じることができるということです。
 そして、礼拝は、神さまの愛を心で感じられるように、一人ひとりの心が神さまの方に向かっていなければ、心にそっと響いてくる神さまの愛が分かりません。

 礼拝が終わったら、今日のお昼に何を食べようかとか、今日の午後はどういう予定だったのかということばかりに気を取られていたら、神さまが触れてくださる大切な時を逃してしまします。
 列王記上19章11節、12節を見ると、主が預言者エリアに出会われる時、「静かにささやく声」としておとずれたとあります。
 目に見えるような大きな変化ではなく、静かにささやいてくださる主の声。人が語るような言葉でなくても、私たちの心に触れる暖かな思いや、ハッとさせられるような思い。そういう心の動きを感じた時、神さまはわたしたちと礼拝の中で出会っておられると言えるでしょう。
 そして、その出会いを通して、神さまは、イエスさまによって実現された、救いのみ業。救い主の死が豊かな実りとなって、わたしたちに与えられた。その実りは、罪の赦しと永遠の生命であったということを確信し、希望を持って今週も歩みつづけることができるでしょう。

 主イエスの受難は、私たちがとても思い描くことができないほど、つらく痛みに満ちた苦しみでした。しかし、その苦しみを越えた先に与えられる豊かな実りがあることを、決して忘れることなく、心の中に留めて、今週も歩んで参りたいと願います。