2024.6.4母と巡るサガタビ③佐賀城本丸歴史観館と鯱の門、鍋島閑叟像 | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)



先日のお出かけ記事の続きです。
腹が減っては・・・・ということで、お昼は某焼肉チェーンに。
奮発して黒毛和牛を頼みましたが、これが後で・・・・


今度は、私の大好きな佐賀城跡にやって来ました。
 


といっても、佐賀城は明治時代の「佐賀の乱」で建造物の殆どは焼失しましたので、
当時の建物で残っているのはこの「鯱の門」だけです。
 



2017年に落成した、幕末の佐賀藩主・鍋島閑叟(鍋島直正)の銅像前でパシャリ!
 

鍋島直正は1830年、父の跡を継いで17歳で佐賀藩第十代藩主に就任しました。

当時の佐賀藩は長崎警備等の負担が重く、さらには天災地変の影響もあって、

財政は厳しい状態にありました。

直正自身も、江戸から佐賀に向けて出発する際に行列が借金取りに囲まれると

いう屈辱を受ける有様でした。
佐賀に入国した直正は倹約令(贅沢禁止・節約)の発令を手始めに、藩士の俸禄

圧縮(減俸・リストラ)を断行。更には磁器・茶などの産業育成・交易振興によって

藩財政建て直しに成功しました。
また、藩校弘道館の機能を強化して優秀な人材を積極的に政務の中枢へ登用

しました。長崎警備に携わる傍ら、西洋の科学技術・軍事技術に強い関心を示し、

後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲、蒸気船凌風丸の製造

に成功。海軍基地・科学技術研究所として三重津海軍所を設置しました。
 1853年の黒船来航では、貿易の重要性を知っていた直正は開国論を主張して

います。 
幕末の倒幕運動では、佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置いた

ため、「肥前の妖怪」と警戒されたものの、戊辰戦争では佐賀藩も新政府軍に

加わり、最新式の兵器を装備した佐賀藩の活躍は圧倒的なものでした。

当時最強の軍隊は幕府軍でも薩摩藩でも長州藩でもなく、この佐賀藩だったと

されます。この為、佐賀藩は明治維新に功績のあった薩長土肥の四藩の一角を担う

事になりました。

しかし、この頃から直正は病身であり、1871年に58歳で病没しました。

英明な藩主の早すぎる死は、明治政府での佐賀藩閥が伸び悩む一因となり、

更には佐賀の乱で元藩士・江藤新平・島義勇らが処刑され、佐賀の地が戦禍で

荒廃することとなりました。

 

24ポンド砲レプリカ。
 

平成に入って復元された本丸御殿(本丸歴史館として公開)。
 

佐賀城自慢の本丸御殿大広間。
 
 

広大な大広間。







貴重な展示品の数々。鍋島紋の木型が面白い(笑)
 


本丸御殿は復元されたものですが、このエリアだけは、県内の民家に移築されて
残っていた、閑叟愛用の書院を再び移築したものだそうです。
こういう障子紙の貼り方を煉瓦貼りというそうです。


来城記念に、鍋島閑叟とパシャリ。
 

こちらは、初期の1番ゲージライブスチーム・・・・ではなく(笑)、歴史の教科書や鉄道の歴史本で必ず登場する、佐賀藩製作の模型蒸気機関車のレプリカ。


「からくり義右衛門」の通称で有名な田中久重(東芝の始祖)等が作った
他にも実際に動く蒸気船模型(後に実物の蒸気船も完成)やカメラ📷️など、当時の佐賀藩の技術の集大成が展示されています。

幕末、我国最強の軍事力と最高の科学技術を誇った佐賀藩。



その栄光と誇りを垣間見ることが出来ました。



長いドライブも終盤、熊の川温泉で疲れを癒しました・・・・。




さて、晩ごはんは・・・・
実はお昼に焼肉食べすぎまして、胃薬のお世話に(^o^;)
せっかく久留米の名店、正八郎うどんに来ましたが、軽めにざるそば・・・・というオチでした。

最後までご覧頂き、ありがとうございました。