今夜のNHK歴史探偵は「桜田門外の変」:金亀児童公園の井伊直弼像と埋木舎(彦根城) | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
 
 
 
桜田門外の変といえば、幕末の万延元年3月3日、江戸城に登城中の彦根藩主・
大老の井伊直弼の行列が水戸藩浪士(薩摩藩浪士・有村次左衛門も参加)に襲われ、
井伊直弼が暗殺された幕末の大事件ですね。
 
 
この際、オラも水戸藩浪士組に参加して、うまいもんにでもありつこうかしらん!?byズブ高覧
 
 
こ、こら~!
飼い主は昔から南紀派(徳川家茂を第十四代将軍に推した井伊直弼らのグループ)のシンパ
だニャン!
徳川慶喜なんかに忠義を尽くしても、小栗忠順や榎本武明の末路を見ていたら、仕えるべき主君の
器にあらず、と断じているニャン。黄門様のことも信用してないくらいだニャン。
(あくまでも、歴史上の人物の好き嫌いですので、茨城県や水戸市の方、お許しください)
水戸藩に味方するなんて言ったら捨てられるニャン!!by田豊とらっきー
 
 
ということは、オラたちも自動的に南紀派!?by淳于瓊ちぇりー
 
 
それにしても、我らニャンニャン三好三人衆がおれば、水戸藩浪士など返り討ちにしてくれたものを!
これで、血首を前に酒が飲めるわい!(武田信虎か~!?)
by田豊とらっきー
 
 
前言撤回!名誉挽回の為、虎戦車で彦根藩の加勢に行くニャン!byズブ高覧
 
 
↓↓↓以下は、若き日の井伊直弼が暮らした埋木舎(滋賀県彦根市・彦根城下)を2017年訪問した際の記録だニャン・・・・by淳于瓊ちぇりー
 
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彦根城の佐和口多門櫓に向かい合う場所にひっそりと建つ屋敷:埋木舎。
 
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ここは、近江彦根藩第十五代藩主にして、幕末の徳川幕府大老・井伊直弼が、
彦根藩主となる32歳まで300俵扶持の部屋住みとして生活した場所です。
第十一代藩主・井伊直中の十四男(!)として生まれた直弼でしたが、五歳で
実母を、十七歳で父・直中を亡くし、他藩への養子のあてもなく、ここで
15年過ごしたとされます。
埋木舎とは、「一生花が咲くことは無く、木の中に埋もれていくであろう
自身の人生」という意味で自嘲的に直弼が名付けたといわれます。
 
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この茶室は澍露庵と呼ばれています。
埋木舎という自嘲的な名称と裏腹に、思春期~青年期の直弼は、茶道・兵学・
鉄砲術・禅を極め、更には長野義言に師事して国学に傾倒しました。
茶の湯の一期一会を説いた直弼には、家臣の多くが師事しました。決して
殿さまの横好きではなかったと云えると思います。
また、桜田門外の変では、籠から動かずに討たれたことばかりが知られ、酷く
惰弱なイメージを与えていますが、直弼は剣の居合術の達人であり、命を
落とした際には短銃の狙撃で腰を撃ち抜かれており、動けなかったとされています。
 
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井伊直弼の形見の着物と、桜田門外の変で直弼が乗っていた籠・・・というのは
冗談で、藩主就任以前に用いた籠だそうです。
 
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ドラマで歴代の井伊直弼を演じた俳優さんのパネルが並びます。
杉良太郎さんや高橋英樹さんの様な見た目も強そうで信念が固そうなイメージ
の方が多いですが、私は丸みを帯びた顔の中村梅雀さんのイメージが近い様に
思いました。
この埋木舎は、後に直弼の側役を務めた大久保小繕の末裔である大久保氏に
対して井伊家より譲られ、今日まで史跡・彦根城の一角として伝えられて
います。
 
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金亀児童公園に建つ井伊直弼象。
32歳の時、兄である、第十四代彦根藩主・井伊直亮の養子となり、1850年に35
歳で彦根藩三十五万石の藩主となりますが、1853年、運命の黒船来航を迎えます。
政務を総括する老中首座は阿部正弘でしたが、開国の是非を巡り、国内は混乱。
本来は幕政に参加できない諸大名や政治経験のない民衆からも意見を募るという
前代未聞の手法が採られますが、これは阿部正弘という人物に大事を決する覚悟が
無かったゆえの玉虫色の結論とも云え、「鎖国は祖法」と攘夷(外国勢力を
追い払う)を主張する前・水戸藩主・徳川斉昭の台頭を招くことになりました。
翌1854年、我国は開国し、日米和親条約が締結されることになります。
しかし、和親条約はあくまでも港への立ち寄りと下田での貿易を許可するもので、
その後の対応と病弱な将軍・徳川家定の後継者問題と絡んで世論は混迷します。
 
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徳川斉昭は鎖国の続行と、実子、徳川慶喜(一橋慶喜)の将軍就任を望んであろうことか全国の有力
藩と手を結び、一橋派を形成します。玉虫色の老中・阿部正弘も一橋派だったそうです。
一方、井伊直弼をはじめとする政治の実務を担ってきた閣僚級の譜代大名は
開国と、徳川家茂(家定の従弟)の次期将軍就任を主張、南紀派を形成します。
更にここで徳川斉昭が阿部老中に対して南紀派の老中を更迭させるなど、
南紀派と一橋派、両者の関係は抜き差しならぬものとなりました。
 
阿部正弘の死後、将軍・徳川家定がわざわざ非常時に置かれる幕府の最高職・
大老に指名したのが井伊直弼でした・・・。
 
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銅像の脇に設けられた
「一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ」
という歌碑は、井伊直弼の曽孫で彦根市長を務め、明治100年にあたる1968年、
彦根市と水戸市を親善都市として提携させた井伊直愛の妻・井伊文子の
詠んだもの・・・。
 
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直弼や、老中首座の堀田正睦らは、日米修好条約調印について、天皇の同意を
得たいと考えていましたが、孝明天皇はこれを拒否。アメリカ公使ハリスとの
交渉の末、条約を締結することになりますが、これにより「天皇に無断で条約
締結」と激しい非難に晒されることになります。しかし、外交は徳川幕府に一任
されているのに、「無断で条約締結」とはおかしな話。直弼も本当は「天皇の
賛意(勅許)があれば、徳川斉昭も大人しく鉾を収めてくれるだろうに・・・」
位の気持ちだったと思いますが、実際には完全に裏目に出た格好でした。
 
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更に、徳川斉昭は江戸城の正式ルールを公然と無視し、登城を許可されていない
にも拘わらず、松平慶永(福井藩主)と共に登城して直弼を詰問します。
しかし、ここで直弼を庇ったのは病弱なはずの将軍・家定でした。
家定は諸大名の前で徳川家茂の次期将軍就任と、無断登城や幕政介入を繰り返す
一橋派の大名の処分を発表した後、家定は力尽きたように亡くなりました。
こうして、徳川斉昭や子の徳川義篤(水戸藩現当主)、松平慶永といった諸大名
に謹慎が命じられ、井伊直弼による弾圧事件、安政の大獄が始まります。
謹慎というと、重いのか軽いのか分からない処分ですが、忠臣蔵で有名な浅野長矩
(内匠頭)が、「仮に吉良上野介に斬りつけなくとも、江戸城内で刀の鯉口三寸
を抜いた行為だけでも隠居や取り潰しは免れなかっただろう」とされるほどに、
江戸城(これは天皇の御所も同じ)では厳しい規則がありましたので、恐らく
順当な内容だったと思われます。
また、孝明天皇からの密勅(手紙)とされる外国への排撃命令(攘夷)を水戸藩
が幕府への報告なしに勝手に受領したことについて、直弼は激怒します。
徳川斉昭は政敵とはいえ、徳川家康に繋がる血統と水戸藩の所領を預かり、共に
徳川幕府を支える立場にあるのですから、「このような勅命は幕府を通じてしか
お受け取りできません。辞退いたします」とすべきだということでしょう。
直弼は、「天皇と水戸藩を唆し、幕府の弱体化を図っている者たちこそ、世を
混乱させる元凶」と考え、水戸藩の過激派の藩士を逮捕・処刑します。
直弼は本来の刑罰より、強いて重い刑罰を科したとされ、後世に非難の的と
されています。一方で、過激派の行為が水戸藩全体の行為でないことが配慮され、
藩主・徳川義篤や家老らの謹慎を解いたりしています。
更に、老中の間部詮勝を京都に派遣。梅田雲浜・橋本佐内・頼三樹三郎らを事件
の扇動者として死罪にしました。その中には明治維新の元勲や、幕末の勤皇の
志士を数多く育てた吉田松陰もいました。
 
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しかし、徳川幕府が強いリーダーシップを発揮した時代を取り戻し、開国を推進
した井伊直弼の強権的な政治は、反対派からの更に激しい反発を生みます。
1860年3月24日(万延元年三月三日という児童書を昔読みました・・・)、遂
に直弼はテロの凶刃に斃れます。
雪がしんしんと降りしきるり、視界の悪い中、直弼の行列は江戸城への登城中、
脱藩した過激派水戸藩士らに桜田門外で襲われました。
首謀者の関鉄之助らは、直訴を装って行列に斬りかかり、同時に直弼の籠に
向かってピストルを発砲。腰に銃創を受けた直弼は自慢の居合抜きも出来ずに
籠から動けなくなりました。彦根藩の行列は季節外れの大雪に、防水用の油紙を
用いた袋を刀の鞘や柄に巻いていた為に咄嗟の対応が出来ず、主だったものは
次々に討ち取られました。
そして、直弼の籠にも無数の白刃が突き刺さり、一つの時代が去っていきました。
 
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事件後、彦根藩主は直弼の長男・井伊直憲の相続が認められる一方、藩内での
水戸藩への報復論は押さえられました。更に、警護にあったった彦根藩士は全て
減俸や死罪を命じられ、直弼の側近となっていた国学の師・長野義言も後に死罪
を命じられました。井伊直憲としては自己浄化のつもりだったと思われます。
しかし、直弼の死後、天皇の勅命を後ろ盾に将軍後見職となった徳川慶喜は、
安政の大獄を井伊直弼の失政として追求し、彦根藩三十五万石の内、十万石を
没収するという事実上の報復人事に出ます。
これにより、幕府と距離を置いた彦根藩は、戊辰戦争の端緒となる鳥羽・伏見
の戦いで幕府軍を離反して官軍(天皇方)に合流。
徳川家康が井伊家に肩入れして築城させた堅城・彦根城はその役割を発揮する
ことなく幕府の手から離れ、その瞬間に徳川幕府の政治的な天命ももはや尽きた
のだと思います・・・。
 
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開国記念館前に建つ井伊直弼の歌碑
「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」
(琵琶湖の海に波が押し寄せて磯に砕けるように、私は今までもこれからも
世の中の為に心を砕いていくつもりだ・・・・)
 
井伊直弼が批判されるとすれば、大きくは三点。
(1)大老在任中に、天皇の勅許なく日米修好通商条約を結んだこと。
(2)吉田松陰ら、明治の元勲に連なる人材を数多く安政の大獄で処刑した
こと。
(3)非常に英邁であったとされる徳川慶喜の将軍就任を阻み、幼い徳川家茂
(13歳)を将軍に推したこと。
 
(1)については、当時法令で外交権は○○に属する等と定められていた訳では
ないので、法令に定めが無ければ慣例に従うのが常識のはず・・・ということは
鎖国を完成させたのが第三代将軍・徳川家光で、別に天皇の許可を得た訳では
ありません。
従って、外交は幕府に一任されている以上、条約締結に天皇の勅許が必要と
いうのは口実に過ぎません。
しかも、徳川家光が完成させたとされる鎖国政策は、元々カトリック布教と貿易
推進を一体で行うポルトガル・スペインの姿勢を警戒した、豊臣秀吉のバテレン
追放令、徳川家康の禁教令を引き継いだのが正確で、貿易による収益と、
キリスト教徒の増大による政権不安を天秤にかけた結果(島原の乱・岡本大八
事件など)、泣く泣く交易を制限したのであり、「鎖国は祖法」等との主張が
筋違いなのは明らかです。
 
(2)については、開国に反対する人々が、京都の公家に頼んで、幕府の政治を
批判する天皇の勅許を密かに出させたことが発端でした。ここで大切なのは、
当時、大名は将軍の家来であり(〇〇藩と呼ばれる大名の自治権・所領は徳川
幕府が承認・安堵することで成り立っていた)、天皇や公家と直接政治の話を
してはいけない決まりがありました。これは徳川幕府にとって血液の流れに
等しい重要な大前提でした。
開国に反対する人々の中に、天皇や公卿に巧みに取入り、勅命を出すために
工作した者がいたことは、徳川幕府にとって完全にレッドカードであり、
井伊直弼が厳しく処罰を行うこととなったのでした・・・。
明治維新の元勲や、幕末の勤皇の志士を数多く育てた吉田松陰を処刑したこと
は、後世に直弼の評価を大いに下げることになりますが、ポイントは「吉田
松陰が処罰された理由は『幕末の勤皇の志士を数多く育てた』からではなく、
『老中の間部詮勝を暗殺する』というテロを企てた」ということです。
「木戸孝允・伊藤博文・井上馨といった明治の元勲や、高杉晋作・久坂玄瑞
といった多くの勤皇派志士を育てた長州の革新者・松陰先生」という接頭語
を外し、冷静に一つのテロ事件として捉えるべきではないかと私は思います。
 
(3)については、大前提が「井伊直弼が推した徳川家茂が、家柄で辛うじて
将軍になれた凡庸な幼君」という前提になっています。
確かに、徳川慶喜は洞察力や交渉力に優れた人物であり、幕府の解散を
意味する「大政奉還」さえも「徳川抜きで経済や政治が成り立つ訳がない」
とあっさり実行。この予感は的中し、岩倉具視や西郷隆盛、大久保利通らの
倒幕派を追い詰めたほどでした。
しかし、家茂も孝明天皇に対し、将軍職辞任を持ち掛け、「幕府人事不介入」
の言質を取ることに成功しており、決して劣っていた訳でもないと思います。
何より、家茂は紀州徳川家の出身ですが、祖父は第十一代将軍・徳川家斉で
あり、第十二代将軍・徳川家慶は叔父、第十三代将軍・徳川家定は従兄という、
血縁を推した直弼らの意向は無理からぬことだったと思います。
 
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遠城謙道師の碑。
彦根藩士の遠城平右衛門は、桜田門外の変での直弼の横死後、悲憤の余り、
同志たちと幕府に抗議。しかし、受け入れられず、僧侶となって江戸の
豪徳寺の直弼の墓の脇に庵を建てて37年間菩提を弔い続けたといいます。
家族を棄てて出家とは、とても真似できませんが、その様な気持ちで直弼に
仕えた者もいた、ということはもっと知られて良いのではないでしょうか?