2022.6.21御来欧音の呼子イカツアードライブ③寺沢広高が築いた名城・唐津城! | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)


前回の呼子イカツアーの続きです。





次にやって来たのは、江戸時代を通じて唐津藩の政庁が置かれた名城・唐津城です。
唐津城は豊臣秀吉に支えた武将・寺沢広高が築いた城で、秀吉が朝鮮出兵の司令部として整備した肥前名護屋城の資材を移築、流用したと伝わります。
寺沢広高といえば、長崎奉行として、豊臣秀吉の命令で二十六聖人の処刑(長崎の国宝・大浦天主堂は、この時殉教した二十六聖人に捧げられたもの)を実行した悪名高い人物ですが、彼は唐津城を築き、防風林として虹ノ松原を整備し、貿易港・水軍基地だった唐津を現在に至る近代的な城下町として育てた功労者でもあります・・・・・・。



私を含め、オジサンは皆疲れていたので(笑)、階段では記念撮影だけで、登城にはエレベーターを使用。



紫陽花咲き乱れる唐津城本丸!



本丸からは唐津湾、松浦川が一望できます。



唐津城模擬天守。

唐津城には天守台(石垣)は築かれたものの、実際に天守閣が建てられたかは不確実です。
現在の模擬天守は1966年に竣工し、内部は博物館になっています。

唐津城を築いた寺沢氏は、次の寺沢堅高の時代に、分国の天草で、有名な天草島原の乱が勃発。戦後、徳川幕府から統治の不手際を責められて天草の所領を没収され、寺沢堅高は発狂して自殺したと云います。寺沢堅高に子供は無く、寺沢氏は断絶、改易となりました。
その後、唐津藩には大久保氏、水野氏、小笠原氏が入府し、享保の改革で有名な水野忠邦も唐津藩主(唐津藩主には長崎の警備という大役があり、幕府の閣僚である老中や若年寄にはなれないことから、野心家、水野忠邦は浜松藩六万石への転封を申し出ている)でした。


さあ、度もいよいよラストスパートです!
〈続く〉