2021.10.2おじさん三人旅IN豊前街道・山鹿温泉⑥第二十三代内閣総理大臣・清浦奎吾記念館 | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)

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次の目的地は、山鹿が生み出した偉人の一人、第二十三代内閣総理大臣・清浦奎吾
の生家である明照寺と清浦奎吾記念館です。
 
 
清浦奎吾は1850年、現在の山鹿市、明照寺に生まれ、幼名を普寂といいました。
 
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一度は熊本県内の寺に養子に出されますが、元来学問好きで好奇心と向上心が
強い彼は幕末の混迷期に僧侶となることを拒み、やがて当時一流の私塾であった
広瀬淡窓率いる大分県日田市の咸宜園の門を叩きます。
写真の仕込み杖は、日田までの70キロの道のりを歩く清浦青年を激励した地元
の資産家が手向けとして護身用に贈ったもの。
彼は咸宜園に居並ぶ全国から来た秀才と比較しても秀でており、やがて寮長の
立場になって他の塾生を指導する立場となります。
 
 
また、この頃日田県令となっていた薩摩出身の松方正義、後任の野村盛秀の知遇を
得て、後に野村が埼玉県令になった際に埼玉県の職員として奉職することになりました。
後に彼は司法省に入省し、有名な外国人お抱え学者ボアソナードから法律論について
学び、現在の刑事訴訟法制定に関与、そのエキスパートとして知られるようになりました。
因みに、現在でも使われる「現行犯」という日本語訳を考えたのは、他ならぬ清浦奎吾
です。
 
後に当時警察権を掌握していた山縣有朋の信頼を得て、今度は内務官僚としての
キャリアを積み、山縣の引立てで司法次官に、今度は松方正義の引立てで司法大臣に
就任し、政治家に転身しました。
64歳の時には内閣組閣の要請(いわゆる大命降下)を受けますが、記念館によると、
「海軍からは大臣を出す条件として戦艦1隻の予算計上、更に海軍に非難が集中して
いた贈収賄事件、シーメンス事件のもみ消し、沈静化を要求された。陸軍からも同様に
3個師団の増強を条件として提示された」為に固辞したそうです。
 
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その約10年後、山縣有朋の後任として枢密院議長になっていた清浦奎吾に再び
組閣の大命が降下。しかし、藩閥出身でもなく、軍隊出身でもない清浦奎吾は
自身が所属する貴族院から選出。大正デモクラシーたけなわだったことや、
長州藩のドン、山縣有朋の側近と見なされていたこともあり、護憲派と呼ばれる
議員からは「特権内閣」「超然主義内閣」と攻撃を受け、5か月ほどで総辞職。
下の写真は、自身を総理に推薦した西園寺公望に辞意を伝えた際のスナップ。
 
 
愛用のサーベルと、宮中への通行手形である御門鑑。
 
 
明治天皇より下賜された菊紋皿・夫婦茶碗。実際に使ったのかな?
 
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内閣総辞職後も、地元・熊本の若者を支援する奨学金を出したり、山鹿の中学校
に清浦文庫(図書館)を設ける等、積極的に行動しました。
清浦の秘書官を経て戦前・戦後に代議士・閣僚を務めた大麻唯男は、清浦への
感謝を忘れず、この記念館の敷地と清浦の墓地を提供したといいます。
 
 
海軍出身の第三十代内閣総理大臣・斉藤実と。
 
 
若い頃から能筆だったようで、記念館には掛け軸・額が多く飾られていました。
 
 
大礼服の清浦伯と共に。
 
 
最後に記念館の傍らにある墓地にお参りしました。
 
 
最近では熊本の方でも「熊本出身の初の内閣総理大臣は?」と聞くと、「細川護熙さん」
という答えが返ってくるそうです。
皆さん、最初の熊本出身の総理大臣は山鹿で生まれた清浦奎吾伯ですぞ!