佐世保市~西海市~長崎市~大村市 西海パールラインを巡る旅(完)大村公園(玖島城跡)を初訪問! | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
 
旅のラストは、江戸時代に大村藩の政庁が置かれた玖島城跡に向かいました。
 
 
かつての玖島城三の丸跡地には、大村ボートが建っています。
ここには本来、お船蔵や船役所があったと云います。
 
 
現在は大村公園になっている玖島城跡。
 
 
玖島城は大村湾に突き出した半島の先端に築城された平山城です。
外堀は全て海を利用したものであり海城の特徴を備えています。
 
 
かつての外堀部分は、大村公園となっています。
 
 
1992年に再建された、二の丸の板敷櫓。
 
 
大手門は、本丸へまっすぐ進めない構造になっており、折れ曲がって一旦二の丸に
入ります。
 
 
大手門脇にある埋門。
 
 
二の丸跡の梅枝荘は、大村藩の料理人が興した店だそうで、名物は大村寿司だそう
です。
二の丸自体は、三の丸との間に土塁と巨大な空堀があり、また、外堀に面したエリア
にのみ(板敷櫓のある面)、石垣積みになっていた他は、目立つ遺構はないようです。
 
 
二の丸から続く虎口門。
 
 
台所門跡。
1599年、大村喜前が玖島城を築いた際には、北側が大手口、南側が搦手口と
されましたが、1614年、息子の大村純頼の時代に南側が大手口となり、本丸には
南側に虎口門、台所門、北側に搦手門が設けられました。
 
 
玖島城本丸跡は、大村藩歴代藩主を祀る大村神社になっています。
大村藩というと、やはり藩祖であり、天正遣欧使節で知られるキリシタン大名・大村純忠
(1533年~1587年)が有名ですね。
大村純忠は、当時島原半島を中心とする南肥前に強大な勢力を有していた戦国大名・
有馬晴純の子として生まれ、間もなく母の実家である大村家の第十二代当主として
養子に迎えられますが、これが純忠受難の始まりでした。
義父・大村純前には既に実子である貴明がおり、強大な有馬氏による同盟・併合策
であったとも云われます。
大村氏の家督を継げず、武雄の領主・後藤家を継いだ後藤貴明は、事実上、実家を
乗っ取った形となった純忠を敵視し、純忠は後藤貴明や、平戸の領主・松浦隆信らの
攻撃を度々受けることになりました。更に、実家の有馬氏に代わって佐賀の龍造寺隆信
が台頭し、純忠を苦しめます。また、家臣団の中にも有馬氏から養子に来た純忠を
快く思わない者がいました。
 
純忠が心の拠り所としたのは、キリスト教でした。
1561年、当時ポルトガル船が入港していた平戸港で、松浦隆信の家臣によるポルトガル
人殺傷事件(宮の前事件)が発生すると、翌年、純忠は大村領の横瀬浦(西海市)を
開港し、カトリック神父らに住居を提供する等の支援を行いました。
更に、1563年には純忠自身もキリスト教の洗礼を受けました。
これにより、横瀬浦は南蛮貿易で繁栄して純忠も貿易による利益を得て、領民の
キリスト教改宗も進んでいきましたが、純忠のキリスト教信仰は行き過ぎたきらいが
あり、同じキリシタン大名の大友宗麟同様、領内の神社仏閣を破壊し、仏教徒や回収
に応じない領民を弾圧する(奴隷として海外に送る)など強引な手法が目立ちました。
これに対して、武雄領主の後藤貴明は、純忠に反感を持つ家臣と呼応して横瀬浦を
焼き払ってしまいます。しかし、純忠は新たに長崎を開港し、以後、貿易港・長崎の
発展の礎を築くことになりました。
 
1572年、後藤貴明・松浦隆信らの連合軍が、大村純忠の居城・三城城を急襲します。
大村方は主だった武将7名しか集まらず(100人足らずの総兵力)、10倍以上の連合軍
と対峙しましたが、何とかこれを防ぎました。
大村家では、この勝利を三城七騎籠りと呼んでいます。
1578年には長崎港が龍造寺軍に攻撃を受け、もはや単独では防ぎきれないと悟った
純忠は長崎をカトリック・イエズス会に寄付しました。
しかし、それは土地は寄付するものの、徴税権は純忠が持つという、恥も外聞も無い
内容で、信仰というよりも、敵対勢力からの攻撃を避けるための方便であったとされます。
1579年に来日したカトリック・イエズス会の巡察師ヴァリニャーノと対面した純忠は、
1582年、ローマ教皇に甥の千々和ミゲルら天正遣欧使節を送っています。
 
1584年、とうとう龍造寺隆信の軍門に降っていた大村純忠は、龍造寺軍に従って、
甥の有馬晴信を攻撃します(沖田畷の戦い)。しかし、この戦いで龍造寺隆信が戦死し、
純忠はようやく龍造寺氏の圧迫を免れ、その後台頭した島津氏の攻撃も受けることなく、
1587年に九州を平定した豊臣秀吉に大村の地を安堵され、既に病魔に侵されていた
大村純忠はその年に亡くなりました。享年55。
間もなく、豊臣秀吉はバテレン追放令(キリスト教禁教・宣教師追放)を出していますので、
敬虔なカトリックであった純忠がそれを見ずに済んだのはかえって幸せだったかも
しれませんね。
 
 
玖島城を築いた大村喜前(1569年~1616年)の功徳碑。
1587年、九州を平定した豊臣秀吉から大村の地を所領安堵されましたが、同年に父の
大村純忠が死去。更に、秀吉がバテレン追放令を出したことから、間もなく自身も
カトリックから日蓮宗に改宗しています。
文禄・慶長の役で朝鮮半島に渡海し、順天城の戦いなどで活躍しています。
秀吉の死後、政情不安を感じて玖島城を築いて、それまでの三城城から居城を移し、
関ケ原の合戦では徳川家康率いる東軍に味方し、大坂の陣でも徳川方に味方しました。
徳川幕府がキリスト教禁教策を進めたことから、宣教師の追放、続いて領内の
キリシタン弾圧(従兄弟にあたる天正遣欧使節の千々和ミゲルが棄教した後も弾圧)、
父・純忠の代から築かれたカトリック教会の破壊を進めた為、大坂の夏の陣の翌年
(1616年)にカトリック教徒に毒殺されたと云われています。
 
 
最後の大村藩主・大村純熈(1831年~1882年)の像。
尊王攘夷運動が台頭する中、藩内では尊王攘夷派と佐幕派が対立しましたが、
純熈は幕府からも頼りにされて長崎奉行に就任。
しかし、長崎奉行退任後は藩内の佐幕派を粛清して尊王倒幕運動に参加して
薩摩藩や長州藩と同盟を結び、戊辰戦争にも参加しました。
明治維新後は1871年に岩倉使節団にも随行し、欧米を遊学。1873年に帰国しています。
1882年に亡くなりましたが、戊辰戦争の功績を讃えられ、死後に従二位が贈られると
共に、大村家は伯爵に叙せられました。
 
大村氏のように、中世以前の領地を保ちながら、明治維新まで家名を保った家は
珍しく(南部氏、相良氏、島津氏、松浦氏など。伊達氏、佐竹氏、上杉氏、毛利氏は
転封を受けている)、非常に苦労したことがうかがえました。
 
最後は大村藩の歴史を学んだ今回のドライブでした。
最後までご覧いただき、ありがとうございました!!