南関→大牟田→荒尾→山鹿 師匠を訪ねて200キロ!②三井三池炭鉱 三川坑(三井港倶楽部・団琢磨) | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)

 

南関を出発して次にやって来たのが、大牟田市の三井三池炭鉱・三川坑跡。

有明坑と共に、三池炭鉱最後の坑道となり、平成9年の閉山を迎えた三川坑。

閉山まで18年を経て、かなりの施設が撤去されていましたが、開坑から閉山までの

60年近い歴史を色濃く感じられる場所です。

しかし、昭和天皇御巡幸や三池争議、400名以上の尊い命が失われた炭塵爆発事故等、

炭鉱史の光と陰の舞台になった場所でもあります。

 

 

今はこの様な宿直出来そうな守衛室ってなかなか見ないですね。

 

 

見学施設としての整備が進んで、事務所が見学者エントランスとなっていました。

 

 

入坑する炭鉱マンが所持した装備。

特にガス検知器やバッテリー、酸素マスクは全員が携帯しました。

 

 

こういう木札で入坑やシフトを管理したんですね。

 

 

世界遺産となっている宮原坑や万田坑の時代と違い、昭和15年に開坑した三川坑は

海底炭田となっていました。従って入り口は竪坑ではなく、斜坑でした。

閉鎖された第二斜坑。ここから深さ500M以上の最深部に繋がっています。

 

 

3人掛けのシートが並ぶ人車。

 

 

車掌車ときいて、身体がうずくのは鉄道ファンの性(笑)。

やはり、ブレーキが付いた緩急車となっています。

 

 

第一斜坑あとに立つ慰霊碑。

1963年11月9日午後3時12分、三川坑第一斜坑の坑口から約1600メートル付近の斜坑

で起きた炭塵爆発で458名の生命が失われ、839名が一酸化炭素中毒になりました。

坑内で用いられていた石炭を満載したトロッコの連結が外れて火花を出しながら脱線、

暴走し、炭塵に引火爆発したといわれます。日本の鉱山史上最大の悲劇とされます。

 

 

第一巻揚機室。昭和38年の炭塵爆発により、巻揚機室の建物が倒壊。

鉄骨造りの建物に建て替えられました。

 

 

世界遺産・宮原坑の巻揚機のブレーキシューはこのように手動木製ですが、

 

 

この三川坑ではブレーキパッドを用いた油圧式になっています。

 

 

こちらは第二巻揚機室ですが、残念ながら上物の倒壊が進んでします。

 

 

採掘中の炭鉱の内部では、内燃機関は勿論、火花による引火の危険もある為、

コンプレッサーで圧縮空気を送り込んで採掘工具などを稼動させます。

この円いタンクは、世界遺産・万田坑で使用されていた蒸気ボイラーを三川坑に

運び、圧縮空気のエアータンクに改造したものだそうです。

古風なリベット止めは、明治時代の蒸気機関車を彷彿させます。

 

 

こちらは英国製で、リベットの先が比較的尖っています。

 

 

こちらのコンクリートに覆われたボイラーは国産でリベットがやや丸みを帯びています。

因みにコンクリートに多数空いた穴は、ダイナマイト作業訓練の為に使われたもの

だそうです。

 

 

敷地が広いこともあり、整備が進む前に荒廃が進んでいる場所も多いです。

 

 

昭和天皇行幸の際に造られたという事務所棟前の小さな池。

 

 

繰込場と呼ばれる、入坑前の点呼や仕事の割振り指示を鉱員が受けた建物。

 

 

隣接する迎賓館だった三井港倶楽部。

明治41年に竣工した三井港倶楽部は、上級船員の宿泊所、要人の迎賓館として

用いられていましたが、現在ではレストラン/結婚式場として用いられています。

 

 

明治・大正期の主力坑道だった大浦坑の坑道入口が保存されています。

 

 

三井港倶楽部前に立つ三井合名会社理事長・團琢磨の胸像。
血盟団事件で射殺されるという非業の死を遂げた団琢磨。

彼が三池港整備に際して述べた・・・・
「石炭山の永久などということはありませぬ。
築港をやれば、そこにまた産業を興すことができる。
築港をしておけば、いくらか100年の基礎になる!」

という言葉は、彼が唯の資本家・鉱山経営者ではなく、地域や社会の発展
を真剣に見据え、未来に対する明確なビジョンを持った比類なきリーダーで
あったことを深く感じさせます。

 



次回はお待ちかねのこちらに・・・・。