南関→大牟田→荒尾→山鹿 師匠を訪ねて200キロ!①豊前街道と南関御茶屋、鷹ノ原城跡(西南戦争) | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)

 

今回のお出かけで行ってみたかった場所が、かつての豊前街道の重要な宿所であった

南関御茶屋跡。いわゆる大名などの宿所である本陣ですね。

 

 

お抹茶なんかも飲めるみたいですが・・・・残念。コロナ禍で休業中!

江戸時代末期の1852年に落成したこの建物は、人吉の相良氏や、薩摩の島津氏も

参勤交代で利用したといいます。いつかリベンジしたいですね。

 

 

井戸や庭園も遺されています。

 

 

加藤清正の築いた鷹ノ原城跡(南関城跡)と、西南戦争官軍墓地と聞いては、

立ち寄らないわけには・・・・。

 

 

ある程度公園として整備されていますが、なかなか登り路はハード。

 

 

でも、直近で訪問した大宰府・有智山城跡がコレだったので、全然ラクでした(笑)。

 

 

山頂部にある、西南戦争の城ノ原官軍墓地。

西南戦争というと、天守閣も炎上した熊本城攻防戦、最大の激戦・田原坂、西郷隆盛

終焉の地となった城山攻防戦が有名ですが、実際には熊本城攻略を半ば諦めた

西郷軍主力(西郷隆盛の両腕、桐野利秋・篠原国幹も参戦)が、軍都・小倉を目指して

北上を開始し、南下を始めていた政府軍の主力も第1・第2旅団と交戦した、豊前街道

を巡る植木・木葉・高瀬の戦いこそが西南戦争の転換点だったとされています。

 

 

近くの正勝寺には、西南戦争の征討都督(司令官)有栖川宮熾仁親王以下の政府軍

が本営を置きました。

 

 

墓地に葬られた77柱は、本来別の場所に仮埋葬されていたそうですが、西南戦争の

翌1878年にこちらに改めて埋葬されあと云います。

 

 

奥にある将校用のお墓の方が墓石が大きいです。

 

 

経年で読みにくくなってはいますが、豊前街道を巡る玉名市・玉名郡周辺での戦没者

が多いようです。南関町の他にも、同じ玉名郡の玉東町にやはり官軍墓地180柱が

あるそうです。

 

 

私は九州出身ですし、父も鹿児島大学を卒業した関係で、やはり西郷隆盛には親近感

を持ちます。西郷の蹶起は不幸な行き違いであり、名誉回復は当然のことです。

(江藤新平の方が好きですが・・・・笑)

 

 

しかし、現在熊本城天守閣に立つ谷村計介伍長(宮崎出身)のように、官軍の将兵と

いう理由で親族が迫害されたりするケース(現在は銅像が立っているのに!)もあった

そうで、そのような事実に目を背けてはいけないな・・・・と思いました。

 

 

また、新しい制度の下で使命を全うし、生命を落とした官軍側の戦死者のことも忘れて

はいけないように思いました・・・。

一応彼らは「政府転覆を企てた反乱者を討て」と言われてやって来たのですから、

あんまり西郷さん、西郷さんでは彼らは何の為に戦死したのやら・・・となってしまいます。

 

 

さて、この城ノ原官軍墓地周辺が山頂=鷹ノ原城の主郭跡である、という認識でしたが、

「徒歩7分」という言葉に惑わされてバテてしまい、私が捜索を怠ったことと、「石垣は

西側」という説明に対して西がどちらか分からなくなったこともあり、結局石垣跡を見ず

に下りてしまいました。こちらもいつかリベンジが必要ですね。

加藤清正の縄張りですから・・・・。

 

 

南関御茶屋跡・鷹ノ原城跡を見学した後は、師匠といつも合流する産交バスの南関

バスセンターを表敬訪問。

 

 

西鉄バスの南関発着所を訪問して次の目的地に向かいました。