古代九州の政庁・大宰府の客館跡(西鉄二日市駅/都府楼) | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
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律令時代、現在の太宰府市を中心に設置された国家機関が大宰府(大宰府政庁:
都府楼、宰府とも呼ばれた)です。
各国に置かれた国府が県庁なら、大宰府政庁はアジアへの玄関口として外交・貿易・
軍事・治安・裁判・徴税の権限まで持つ一大機関であり、遠の都とも呼ばれました。
西国随一の都であった大宰府は、同時に争奪の対象でもあり、奈良時代には藤原式家の
藤原広嗣が大宰府に左遷されたことを恨んで反乱を起こした他、平安時代の有名な海賊・
藤原純友が太宰府を攻め落としたこともありました。
やがて、武士の台頭を迎えると、鎌倉幕府の御家人・武藤資能の一族が太宰少弐の官位を
得て少弐氏を称し、九州北部の覇者として君臨し、大宰府を本拠地としました。
 
 
 
そんな、太宰府の巨大な設備の一部「客館(迎賓館)」が以前から公園として整備されて
たので、ちょっと散歩してみました。
 
 
大宰府は、奈良の都同様に碁盤の目状の条坊制を敷き、朱雀大路を中心に町が
広がっていました。
 
 
この、管理棟とされるエリアは、迎賓館の管理棟跡とされ、諸外国の使者が携えた
貢物をあらためたりした場所で、3棟の建物・倉庫があったとされます。
現在は公園の展望台が設置されています。
 
 
管理棟北側を東西に走るのが、十四条路跡です。
古代の道路の範囲をコンクリートで再現しています。
 
 
管理棟エリアの西側、現在の西鉄天神大牟田線側に広がっていた、厨(炊事場)の跡。
多数の高級食器と、複数の井戸跡、建物・倉庫の跡が見つかり、客館全体を支える
大切な場所でした。
 
 
十四条道路と、南北に交差していた左郭一坊路。
 
 
ここは、客館の中枢エリアとされる建物跡。
南北に2つの建物があり、北棟は南北29.5mもある建物で、太宰府の遺跡では最大級
の建物でした。
 
 
写真は、琉球の首里城の模型ですが、この客館の中枢エリアには、正殿こそ無かった
ものの、広い中庭があり、西の端にも中庭に向いた(東向き)の建物があったと推測
されています。また、中庭のスペースを確保する為、左郭一坊路の一部が潰されていた
ようです。
 
 
こちらは南棟です。南北23.6mありましたが、北棟より先に閉鎖・廃止されたようです。
 
 
こちらは、客館の大型建物が並ぶ中枢エリアに繋がっていた、東西道路十五条路跡。
 
 
南北道路・左郭二坊路跡。管理棟の東側を通っていました。
 
 
西鉄天神大牟田線の車窓から見えるこの史跡。
以前から気になっていましたが、初めて見学することが出来ました。
夕方の30分ほどで散歩がてらの撮影で恐縮ですが、とても楽しかったです。
 
福岡県の史跡というと、
 
 
大宰府政庁跡や、
 
 
天智天皇が建立した観世音寺、
 
 
福岡城跡、
 
 
世界の銀の三分の一を産出した石見銀山の主・神屋宗湛(豊臣秀吉の側近で、
本能寺の変当日に本能寺に宿泊!)の屋敷跡など、往時の形を留めていない場所が
多く、
 
 
この大宰府客館跡も往時の姿はありませんが、それでも、律令時代の大宰府の香り
があり、とてもワクワクする場所でした!