2020.10.10サガタビ!⑨龍造寺隆信・鍋島直茂・副島種臣・・・佐賀の名将・偉人が眠る高伝寺 | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
 
10月10日のお出かけ記事の続きです。
水ヶ江城跡に続いてやって来たのは、佐賀市内の高伝寺です。
 
因みに私の妻は佐賀県出身です。
歴史好きな私ですが、結婚してからは佐賀の戦国大名・龍造寺氏が大好きになり
ました。一代で「五州二島の太守」と呼ばれるほどの勢力を築いた龍造寺隆信、
その跡を継いで西国の大藩・佐賀藩の基礎を作った義弟・鍋島直茂といった梟雄・
英傑の活躍に夢中になってしまったのです。
 
 
そんな私が何度も訪れているのが佐賀市内の高伝寺です。
戦国時代、圧倒的な強さで肥前・肥後・筑前・筑後・豊前等を治めた龍造寺隆信でしたが、
島原半島の有馬氏と沖田畷の戦いで敗死します。
カリスマ当主の死は龍造寺家臣団に大きな衝撃を与え、名目上は息子の龍造寺政家が
後継当主になったものの、若年の上に病弱では乱世の舵取りが行えるはずもなく、
龍造寺隆信の義弟である鍋島直茂(龍造寺隆信の母は鍋島直茂の父と再婚した)が
執政として龍造寺軍団を任されることになります。
更に、九州を平定した豊臣秀吉は鍋島直茂を高く評価し、事実上の佐賀の国主として
取り扱いました。また、江戸時代に入ると、徳川幕府も鍋島直茂の息子・鍋島勝茂を
初代佐賀藩主として取り立てた為、ここに佐賀鍋島藩が成立することになりました。
高伝寺はもともと佐賀藩主・鍋島家の菩提寺でしたが、幕末の藩主・鍋島直正(閑叟)は
かつて鍋島家が使えていた龍造寺一族の墓をここに移して弔うこととし、鍋島歴代藩主の
墓と龍造寺一門の墓が整然と並ぶことになりました。
 
 
という訳で、私が一番好きな龍造寺隆信のお墓です。この人が現在の佐賀の基礎を
築いたと言っても過言ではないでしょう。肥前の熊と呼ばれた梟雄がここに眠っています。
 
 
動かない肥前の熊のお墓だニャン!
 
 
Kさん、くさせんり師匠も一緒に写真に入りました。
 
 
その息子・龍造寺政家のお墓。一際大きいのは、結果論として鍋島家がこの龍造寺政家から
佐賀を奪ってしまったから、そのお詫びなのでしょうか?
 
 
龍造寺政家の息子・龍造寺高房の墓。父と違い、文武に秀でた武将でしたが、
同時に非常に繊細な神経の持ち主でもあり、もはや佐賀の主には戻れないと
将来を悲観して自殺未遂を起こし、その傷がもとで若くして亡くなりました。
彼の死により龍造寺本家は断絶することになります。
 
 
境内には龍造寺家中興の祖で、龍造寺隆信の曽祖父にあたる龍造寺家兼(剛忠)の
お墓もあります。光栄のゲーム「信長の野望」でおなじみですよね(笑)。
 
 
そして、これが佐賀藩祖・鍋島直茂のお墓。龍造寺家から実権を奪った簒奪者として
評価される場合もあるようですが、彼が最後まで佐賀藩主就任を固辞したことや、
かつて乱世を共に戦った同僚に対して龍造寺時代と同じ待遇(知行、つまり給与)
を与えたこと等、有能な人物に人望も集まったという典型だと私は思います。
 
 
初代佐賀藩主・鍋島勝茂のお墓。父の築いた遺産を見事に守り抜いて近世大名への
道を切り開いた守成の名君ですが、島原の乱で幕命を無視して勝手に総攻撃をかけた
(先駆けの功による領地加増を期待したと思われる)ちょっと戦国気分が抜けきれない
人としての方が有名かもしれません(笑)。
因みに。この時の島原の乱鎮圧軍総勢12万の内、約3分の1にあたる3万5千が
鍋島勝茂の手勢でした。彼は彼なりの目算があって抜け駆けをしたのでしょうね。
 
 
最後は副島種臣のお墓。明治時代の大蔵卿、書家としても有名な佐賀の七賢人の
一人(銅像は向かって左側)です。佐賀新聞の揮毫は彼の手によります。