日本銀行券新デザイン発表!北里柴三郎先生、おめでとうございます!(千円札) | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
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本日ニュースを見ていたら、日本銀行券(千円札・五千円札・一万円札)の
新しいデザインが発表されたとのこと。
しかも、千円札は九州熊本出身の医師・医学者でノーベル賞候補にも上った
北里柴三郎だと聞いてビックリ!
私は医療関係者でも、北里大学の卒業生でもありませんが、一度記念館を
訪問してすっかり北里柴三郎先生が好きになりましたので、今回は再掲記事を。

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ペスト菌の発見で知られる、医学者・細菌学者の北里柴三郎(1853~1931)
は、現在の小国町北里(旧北里村)で誕生しました。
小国町には、北里柴三郎の生家・北里文庫などが北里柴三郎記念館として
遺っています。

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黒船来航の1年前、1853年に北里柴三郎は北里村の庄屋を務める家系に生まれ
ました。移築された北里柴三郎生家。小国町の指定文化財になっています。

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北里柴三郎が、生まれた郷土への報恩として寄贈した図書館、北里文庫の
建物が記念館の展示室になっています。

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愛用の顕微鏡・天秤・実験器具などが目を引きます。

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柴三郎に大きな影響を与えたオランダの軍医マンスフェルト。
熊本医学校で柴三郎に出会い、「自分は政治家か軍人になりたいので、
外国語を学びに来た」という柴三郎に、「医学や医師は決して無用なもの
ではない」と教え、医学者・北里柴三郎誕生へと導いたそうです。

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内務省衛生局に出仕した北里柴三郎は、ドイツ留学を命じられ、ベルリン大学
のロベルト・コッホ博士(ノーベル生理学・医学賞受賞)に師事します。

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結核菌・コレラ菌を発見し、世界的な細菌学者であったコッホの下で、柴三郎
は破傷風菌の純粋培養や、破傷風菌抗毒素、血清療法の発見など、画期的な
実績を次々に打ち立てました。

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帰国後は、福沢諭吉の援助で伝染病研究所を設立し、後に国立伝染病研究所
(現在の東大医科学研究所)へと発展します。
更に、ペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、ペスト菌を発見する
ことに成功しました。

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しかし、時の大隈重信内閣が、内務省所管の国立伝染病研究所を、文部省所管
の東京大学下部組織として再編することを一方的に伝えてきたことに激怒
(柴三郎は、「伝染病予防は、医学の一研究分野ではなく、政府の重要な内政
事業である」という信念があったようです)、下野の後、私財を投じて私立
北里研究所を設立。狂犬病・インフルエンザなどの研究に尽力しました。
写真は、現在も明治村に本館が遺る北里研究所の模型です。

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北島多一、志賀潔といった伝染病研究所の主要研究者も、柴三郎を慕って
北里研究所に移籍したそうで、彼らとの書簡も展示されていました。

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どんなことが書かれているんだろう・・・?

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1913年、北里柴三郎は故郷の北里村に自動車で帰郷。
故郷に錦を飾った柴三郎は、自分を育てた故郷への報恩として、北里文庫
(図書館)を寄贈。その落成式に参加しました。
木造の洋館の背後に書庫であった土蔵が繋がっており、最盛期の蔵書は
1511冊。医学書だけでなく、農学書・政治書も収蔵されており、当時は
熊本大学に次ぐ規模であったと云います。

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北里柴三郎が帰郷した際に使用した車種が気になる・・・(笑)。

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北里文庫に隣接して建てられた貴賓館。
柴三郎が帰郷した際、或は賓客をもてなす宿所として用いられました。
良質な小国杉がふんだんに使われています。

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幼少の北里柴三郎が儒学者だった叔父の家に預けられた際、毎日磨いたという
縁側の板が展示されていました。
毎日刀を振り回して外で遊ぶやんちゃな少年だった柴三郎を躾の為に叔母が
磨かせたところ、以後、柴三郎は自発的に毎日磨き、それを帰郷するまで
4年間続けたと云います。いまでも、この伝記に倣って子供たちが縁側の掃除を
するそうです。

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貴賓館2階。小国の美しい風景が遠くまで見渡せ、帰郷した際には故郷の風景
が心を癒してくれたことでしょう・・・。
現在では作れなさそうな柱の少ない構造がもたらす開放感がたまりません。

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記念館の敷地に立つ御手植えの小国杉。
北里文庫・貴賓館の落成時に夫婦で植えたものだそうです。

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旧北里村を望む場所に建つ北里柴三郎の胸像。
揮毫は徳富蘇峰の筆によるそうです。

北里文庫寄贈の翌年、柴三郎は福沢諭吉の生前の恩に報いる為、慶應義塾大学
医学部、及び病院の設立に尽力し、医学部長となりました。
また、それまで各地に乱立していた医師会を統合し、後に医師法に基づく
日本医師会の初代会長となり、医学界を牽引しました。
亡くなったのは1931年です。

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感激して購入したDVD。
北里柴三郎の功績と医学史における特異な立場を考慮すれば、一万円札でも
良さそうですが、そこは恩師の福沢諭吉に遠慮したということで(笑)。

北里柴三郎が活躍した明治中期~昭和初期というと、どうしても富国強兵策や
対外拡張策に目が行きがちですが、庄屋という武士階級に生まれ、医学・
細菌学という新たな文明・学問で世界的な功績を立てた北里柴三郎の様な
人物が現れたことは誇るべきことであり、日本医師会第2代会長・慶応大学
医学部長を務め、ハブの血清療法を発見した北島多一や、赤痢菌を発見した
志賀潔といった優れた後身を育成したカリスマ性も含め、とても感激しました。