今日は2018.2.26・・・・二・二六事件と廣田弘毅・斎藤実 | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
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今日は2月26日。有名な二・二六事件が起こった日ですね。
思想家・北一輝らに感化された陸軍皇道派の将校らに率いられた約1500名の
兵士が決起し、首都・東京の中枢部を占拠しました。
内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清らが暗殺された他、総理大臣・岡田啓介
や侍従長・鈴木貫太郎らが襲撃を受けました。

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福岡県出身の私にとっては、むしろ事件後に内閣を組織した廣田弘毅の方に
思いを馳せます。
岡田内閣が総辞職すると、次の首相に廣田が推されますが、廣田はこれを頑なに
固辞。近衛文麿や、外務省の友人・吉田茂らの懸命の説得により、ようやく廣田
は総理就任を引き受けました。
しかし、廣田は粛軍(二・二六事件時の将官らの大規模処分・人事移動)を実施
して内閣の求心力向上と軍部の抑制を試みたものの、軍部の予算拡大や日独防共
協定締結(後に三国同盟へと発展)、更には軍務大臣現役武官制(陸海軍大臣は
現役の将官に限るというもので、陸海軍の意向で組閣を妨害できる)の、復活を
招いてしまいます。
すでに疲れ切っていたと思われる廣田は、翌年に国会で軍部の政治干渉をめぐる
紛糾が発生すると、閣内不一致を理由に総辞職したのでした。
その後、近衛内閣で再び外務大臣を務め、開戦前夜には開戦回避に尽力し、戦時
中も休戦の努力を試みた廣田でしたが、その努力が報われることはありません
でした。
終戦後は、日独防共協定成立・軍務大臣現役武官制復活の際に総理大臣であった
ことから責任を問われ、軍人以外では唯一のA級戦犯として刑死しました。
しかし、福岡市出身の唯一の総理大臣として、当時の福岡市長の進藤一馬氏らが
中心になってこの銅像が建てられました。

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廣田弘毅は能筆でも知られており、福岡市中央区の水鏡天満宮の鳥居の額は廣田
が小学生のころに揮毫したといいます。