御来欧音、母と冬の熊本旅行⑧阿蘇大宮司家を支えた名将・甲斐宗運(甲斐親直)の居城・御船城 | 食事処 御来欧音おらいおーね(福岡県筑紫野市阿志岐1521‐1/ゼロ戦/鉄道模型/ガンプラ)
甲斐宗運は1515年、阿蘇氏(阿蘇大宮司家)の重臣の家に誕生。
長じて阿蘇氏を支える宿老となり、同じ阿蘇氏の家臣で、阿蘇氏に背いた御船氏を征伐。

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御船氏の居城だった御船城主に収まった甲斐宗運は、豊後の大友宗麟・人吉の相良義陽
との同盟を堅持して阿蘇氏の安泰を図ったといいます。
本日は以前から行きたかった御船城跡に行ってきました。

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御船小学校の傍の小高い丘の上が御船城址となります。
その後、甲斐宗運は阿蘇家安定の為、裏切り者は同じ甲斐一族のものでっても許さず、
外部から侵入してきた隈部氏・城氏・鹿子木氏らの大軍を撃退する等、八面六臂の
活躍を見せました。
しかし、頼みの大友宗麟が耳川の合戦で敗れると、阿蘇家と甲斐宗運の立場も微妙に
なり、しかも今度は水俣城の合戦で島津氏に敗れた相良義陽が同盟を破棄して矢部に
攻め込む等、自体は急転します。
響野原の戦いで相良義陽を敗死させたものの、かつての盟友の死と時代の流れに築いた
甲斐宗運は「阿蘇家滅亡まで3年」と呟いたといいます。
やがて、相良氏や隈部氏と同様に宗運が仕える阿蘇氏も島津氏に従うことになりましたが、
のらりくらりと島津氏の要求をかわして阿蘇氏の独立を保ったといいます。
亡くなったのは1585年、豊臣秀吉が九州征伐(島津征伐)に出陣する1年余り前の
ことでした。
その後、息子の甲斐親英は一度は島津氏に奪われた御船城を奪回したものの、隈部親永
らに同調して肥後国人一揆に参加し、佐々成政や天下人秀吉に無謀な戦いを挑んで敗れ、
自害。ここに甲斐氏は滅びたのでした。

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胸像が見えたので、甲斐宗運かと思ったら、熊本バスの前身・熊延鉄道の社長・田副清の
胸像でした(笑)。

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主郭だったと思しき場所は天満宮の祠になっていました。

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天満宮つながりで「大宰府の飛梅」が植えられていました。

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今回は御船城の歴史や甲斐宗運の事績を示す物が何一つ無くて、寂しかったです。
唯一甲斐宗運という名前が出ていた宗運門にて・・・。