中世、後醍醐天皇の皇子・懐良親王を擁して熊本だけでなく九州全域を制圧した菊池一族。
しかし、一世の傑物・菊池武光の死後、徐々に衰退していきます。
孫の菊池武朝の時代以降、分家筋にあたる隈部・赤星・城の三氏、いわゆる菊池三家老と
菊池武光の母方に当たる阿蘇大宮司家、豊後の大友氏等が伸長して熊本に勢威を張る
ようになります。
隈部親永は菊池三家老の隈部氏の第二八代として生まれました。
既にかつての主家である菊池家は大友義武による乗っ取りで事実上解体され、大友家に
使えるようになりました。しかし、親永は同じ菊池三家老の赤星氏と争うようになり、
赤星氏の背後にある大友氏・阿蘇氏(阿蘇大宮司家)とも対立しました。
やがて、大友宗麟に対抗するべく佐賀の龍造寺隆信に接近し、龍造寺軍と共に熊本の中心、
隈府(菊池城)を攻め落とし、本拠を移します。
しかし、今度は赤星氏と結んだ島津家に頼みの龍造寺隆信が島原で敗死。
孤立した親永は島津氏に降りましたが、間もなく天下統一を目指す豊臣秀吉が20万近い軍勢
を率いて九州へ上陸。時勢を見た隈部親永は豊臣家に従うことにしました。
しかし、織田信長同様に地方を治める中間層の国人(豪族)の存在を望まない秀吉は隈部氏
の領地の大部分を没収しました。
更に、秀吉の命令で熊本の太守となった佐々成政は検地を強行。
当時の検地とは田畑を測量して農民や地方領主に課税することが目的ですから、中世以来の
熊本の社会を担う国人は大反発。
隈部親永も栄光の居城・菊池城に籠城しましたが、佐々成政自身が大軍を率いて攻囲した
為に脱出。息子と共に城村城で決戦を挑みます。しかし、秀吉自身が黒田官兵衛らに鎮圧を
命じて大軍を派遣した為、ついに落城。同時に同調した熊本の国人衆も多くが落城、又は
討ち死に。捕えられた隈部親永は柳川で従容として首を討たれたといいます。
こちらは、その隈部氏代々の拠点となった隈部館跡。
敵を防ぐ城門の枡形跡。
復元された館跡の礎石。規模や立地から察すると、中世武家の居館といった感じで、
城塞には程遠いのですが・・・。
眼下には隈部氏が支配した山鹿・菊池を見下ろすことが出来、山全体が防御施設に
なっていたことが分かります。
館跡の脇には現在隈部神社が建っています。
こちらは菊池城跡(隈府城・守山本城とも)。現在は菊池神社が建っています。
隈部館跡から少し下った公園「あんずの丘」に建立された隈部親永公像。
隈部館跡が国の史跡に指定されたことを受け、平成23年に建立されました。
隈部親永というと、大友宗麟・島津義久、龍造寺隆信といった九州三強を手玉に取り、
最後は天下人・豊臣秀吉に背いて非業の死を遂げた熊本の梟雄・フィクサーのイメージが
強いのですが、建立された銅像を見ていると、専ら郷土の平和と繁栄を願い、元気に走り
回る子供たちを慈しんでいるかのように見えました・・・。
(続く)