My Story 4
やっぱり所詮は、檻の中の「サル」。
檻のルールに縛られて生活するのが「楽」だったし、
何よりも、1人飛び出したような行動をするのが怖かった。
たとえ、扉が開いているのを知っていたとしても・・・。
その後は、まさに「お祭り」だった。
毎日のように、飲み歩き。お祝いされた。
「見てたよ!すげーな!」「次はいつ?応援に行くよ!」
山に上がっても。
「あっ!この前見ました!すごいですね!応援してます!」
なんだろ・・・。
有頂天?自分が自分でないような。自分が「偉い人」になったような・・。
ちょーしに乗っていた。自分以上の自分を装った。
この頃、彼に会った人はみんな「良い印象」持ってないと思う。笑
そして、その頃は。
あまりスノーボードが好きではなくなっていた。
山に上がっても。失敗(コケたり)する所を見られたくなかった。
「若さ」を言い訳にして「今日はいいや。明日やろう。」
「まだ、そんなに焦らなくてもいいでしょ・・・。」
180度。540度変わった「情熱」。
人に注目されるのが怖かった。人に「評価」されるのがイヤだった。
いつの間にか、「バイト」を言い訳に、
「大会」からも遠ざかった。
ちょうどその時だった。
「*ディガー」の話で声をかけてもらったのは。
(*ゲレンデ内パークの整備、アイテムを管理するチーム。多くのプロはココを通過している。スノーボードを本気でやってる人には憧れの仕事だろう。僕はそうだった。)
ちょうど「外資系(オーストラリア)の企業」がゲレンデの1部を買収し、
オージーと反りが合わず、辞めてしまった「プロライダー」の代わりに。
そこでは、オーストラリアから来たパークチームが何人かいて「英語」を交えながら仕事をした。
「ディガー」。大好きな仕事!
仕事している感覚はなかった!
毎日、好きなスノーボードやって「お金」をもらえた!
こんな日が一生続いても良いな。と本気で思っていた!
ある日、向こうから来ていた「パークチーム」のリーダーに
「MS!オーストラリアに来ないか?向こうのパークチームに来いよ!」
迷う理由なんてないよ。笑
「好きな仕事」
「お金もらいながら、夏もスノーボードできる!」
迷いはない。
再び、「世界」に出た。24歳。
後にも先にも、彼が最初で最後のジャパニーズ。
オーストラリアの雪山(Mt,Hotham)のパークチームだった。
その後、彼のいた日本のスキー場。すぐに「香港系の企業」に売ってしまったから。
今、日本で働いているオーストラリア人のディガーは、いない。
恐らく、オーストラリアのパークチームのジャパニーズも、いない。
「若さ」は大きな武器。「怖さ」を知らないから。
初めて「怖さ」を知った時「変化」が訪れる。
彼女は「変化」の真っ最中。
それを「乗り越えた時」彼女は「無敵の女王」になる。
置かれている「立場」はまったく違うけれど。
僕は、とても人間的(普通の女の子)な「浅田真央選手」が好きです。
金メダルを取るためだけの「サイボーグ」になる必要はない。
アナタは十分「感動」を日本に届けていますよ。
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