新通勤車
競輪場往復と通勤と少し遠回りして買い物
たぶん47kmほど
バックキックのおかげでフリーハブ車とピストの違いがかなり分かり、共通の前方詰め部分を除いて、フリーハブ車はフリーハブ車なりの走り方をすべきだなぁと思いつつ…
最大値 内臓を筋肉で引き締めて護る走り
朝見つけた、コーナリングで外に振られないように、内臓にインを突かせる走りを、夜も夜中にやってみたら、むちゃくちゃ良かった。慣性力がばりばり活きた。
ウエストシェイパーをきつく締めたのもあるっちゃけど、ちゃんと意識して臓物のまわりの筋肉を引き締めて護るように包み、それでいて内臓が置いてけぼりを食らわぬようにぐいと押し出す攻めも行うと、これまで得も知れぬ苦痛によって脚が止まっていた曲がり角も登坂も、曲がり角と登坂の混ざった道も、意気揚々と駆け抜けることができた。凄かった。
どうやら、骨に最初から守られているような部位は自転車のギア倍の速度になんとかついていけるけど、骨に守られていないお腹あたりはギア倍の速度に置いていかれて、そこで内臓と筋肉にすれ違いが起きて、なんとも言えない苦痛を感じ、脚が止まっていた模様。
あらかじめ曲がる前から筋肉の緊張などでコーティングし、遠心力で外に振られるぶんを計算して早め早めにインを突く。
これで、遠心力で膝がフレームに当たる問題やそのほかさまざまな不安定要素が安定化すると体験できた。何度も。
ゆるい坂道でも疲れているときは億劫だったが、疲れているはずの朝走行とバイト後でも意気揚々と登れたので、この理屈は本物なんゃと思う。
骨に守られていないから、筋肉で護って連れていくか推していかねばならないんだ。
これが、お腹が凹んでいるからこそできる、ハングリー精神の賜物ということか、なんても考えたよ、北原先生。
今夜も部埼灯台に行こうとしたのだけど、資さんうどんもすき家もなんだか食べたくなくて。
そういえば家に柘榴ジュースを常備する本数としては不足があったなと、24時間イオンスーパー(マックスバリュー)を2店舗以上まわる決意をした。2店舗以上まわれば、今日の走行は部埼灯台に行ったのと同じ距離になるのだ。
して、最初のマックスバリューで柘榴ジュースは豊富に売ってあったので、一度帰宅した時点で常備数には満足してしまった。
あとはいうなれば、常備数のためにヨーグルトとチョコを買いに行ってもいい程度。
夜中の一時半。
普通に考えたら今日はここまで!にすべきだろう。
なんせ、今日もまた50kmほど(3本ローラー含めたら)は走ったのだ。
ただ、臓物を筋肉で引き締めて…をするようになり、いままでいつでもほぼ不可能だった、登坂のあと勢いを保ったまま下り坂に突入していく走りがそれでいとも簡単にできてしまった味をしめて。
普通じゃなしに、やはりもう一店舗行きたいと思いもするのだ。
臓物を、自分で筋肉を意識して引き締めて護ることをしなかったから、よくバンクで短距離を頑張ったあと、嗚咽していたんだなぁと理解できた。
結局、ペダリングによって臓物は内側から、ドカドカドカドカ蹴られていたというわけだ。
私はそれを、そういうもんなんだと慣れっこになって、自分の限界としていつの間にか受け入れてしまっていたらしい。
違った。
私の限界じゃない、それは。
それは自身の骨の無い部位に、自分が優しくなかっただけのこと。
子供の頃、何かというと、親がボクを馬鹿にしたんだ。
そのひとつとして、内臓の感覚が自分でわかるわけがないじゃないか、というものがあった。
ボクは、わかる、というのに、親は、わかるはずがない、ととにかく頭ごなしに否定し馬鹿にした。
親はよく本を読むから知的に見えたが、時折やはり、無感覚というか、結局のところ無知なところがあった。
よく本を読むひとは、逆説的に言って、あんまり自力で汗をかいて外に飛び出していかない。これはもう、事実だ。本を手に持って読みながらジョギングすることは、さすがにできないからだ。
親はボクの馬鹿にすべきでないことを幾つか馬鹿にし、ボクはその反証のために膨大な時間を費やすこととなった。
馬鹿げているけど、親の言う通りにしてボクがオレや私の可能性を永遠に喪うことのほうが、もっと馬鹿げているから、私は、反証に勤しまざるを得なかった。