那
向
醒
案
如
来
たぶんこのブログで何年かに一度言っています。
タイムイズノットマネー。時は金なりの否定。
ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだことはあるはずなんですよ私は。
でもなんかしっくりこなかった。言いたいことは何となく伝わるんゃが、エンデの無精極まる姿もあいまって、あの長い話にあんまり意味を感じなかった。
それはきっと、私には時間とお金の明確な違いがよくわかっていたからなんゃと思います。
よほどの肥満でない限り、御飯を食べると動くスピードが上がり、同じ時間内にできることが増えます。これ、時間が増したといえるんですよね。
同じ金額のものを食べても、一方は栄養満点、もう一方はスッカスカの栄養赤点であれば、栄養満点のものを食べたほうが動きやすくなるでしょう。
ほら、ね?
そこにはもう、タイムイズノットマネーの方程式が隠れています。
時間は人として与えられた文化水準に基づいて増えるものなので、恵まれているか恵まれていないかの差が大きく出ます。差が出たからって不服すら言う余裕なかりせば、時間は神の持ち物と考えるしかなくなります。時間はそのように、個々人の持ち物ととらえるには難い要素がいくらもあります。
他方でお金は誰かの持ち物であることを容易に示しやすいです。時間と違って個々人の持ち物であることは明確な事実です。騙し取ることは時間を狭くする(減らす)行為でもあり、ウィンウィンで支払うことは時間を広くする行為でもあります。ほら、そこにもまたタイムイズノットマネーの方程式が隠れています。
要するにタイムイズノットマネーなんです。
でもなんで多くの人がタイムイズマネーで動きたがるでしょう。
おそらく宗教心を非科学としてとらえて、あまり表現したくないからなんでしょうね。また、損をしたくない…不服すら言う余裕のなくなることを死ぬほど嫌がっているんでしょう。時間が神の持ち物であるということを認めたくない。個々人の持ち物であって、どちらかがどちらかを支配していて、そして自分は支配する側でありたい、そういう、願望ですね、それってあなたの願望ですよね、ってな感覚で、時間をとらえている。つまんねーことに。
タイムイズマネーはつくづくリアルじゃないです。
タイムイズマネーは、夢見る夢子ちゃんの脳内お花畑です。
自分の時間を奪われたくないなんてことを考えて他人を責めるのなら、相手の時間を奪ってしまった場合には、同じくらい自分を責めないと、そんなことでもすぐにタイムイズノットマネーの方程式が姿をあらわします。
ゴチャゴチャと細かいマウンティングで支配側になろうとするくらいなら、いっそのこと、タイムイズノットマネーで事にあたってほしいです。そのほうが、きっとお互いの時間にとってもウィンウィンになる。
こ
ん
ば
ん
は
🙂
せっかく、日本は多神教ですし。