那向醒案如来



だから、釈迦の教えをできるだけ変えずに現代に伝えてみても、自動車(区画整理)や低空飛行機(轟音と恐怖と忘却なしには法を犯さずにはいられない狂気)、ほかをいえばダムなどもあるけど、それらの公共の福祉による被差別者をカースト制度の模倣のようにして死ぬときくらいしか逆転がないかのように論じる程度になってしまう。それでは 遅すぎる んだよ。

かといってじゃあ手前勝手にあるいは既得権益層に寄り添うように変えて伝えりゃいいかってと、そうじゃねえってのがドライバーをみててわかるわ。既得権益層を批判するときもあるのに自分の既得権益に関してはまるで反省がない。そして何より、変えている自覚がない。変えずに守っているつもりで守れていない。


『魔人探偵脳脳噛ネウロ』で X(サイ)に犯罪者の自覚をさせる終え方をアニオリがやって大変不評だったけど、それほど 私 や 個 に責任を負わされるのを都の者ほど嫌うんだよな。単なる責任転嫁なのに、それをぐちぐちぐちぐち釈迦のせいにするなんて、みっともない。


釈迦の教えがすべて守れないからって、別段カーストの下のほうなんだとか思わなくていいんだよ。

釈迦は釈迦の時代や地域においてその生き方が可能だったのであって、日本人にその生き方ができるとしたらそれはそれでシェアすべき苦しみや困難もシェアしない、ただの門外漢にしかならないよ。ぜんぜん土の豊かさや歩く難易度が違うんだから。



たまたま京都の平らな土地柄は、その限定的な領域において釈迦の真似事ができそうな可能性を持ってはいるけれど、だったらだったでほんとうは、京都は大自然のままにしておかねばならない。建物たてまくって、都会になっている場合ではない。



都会として既得権益の絡みで、怒りをどれだけでも振りまいておきながら、怒るな、とは笑止千万。



都会化するならきちんと "私" を自覚し、責任転嫁は止めることだ。そうすればまた、機械によってズラされてきた部分も見え始めるよ、きっと。





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