法律にも、成立までに犠牲の前後さまざま。
仏教はエンジンに追いついているわけがない。
違法を仏教で正当化しようとすんのはあまりに遅い。間に合わないから止めとけ。
と、云っても既にボケ爺さんの域なら届かんのだろうな…。
徒歩で行ける距離をエンジンで超えれば、そこからさきは冥界。
冥界からまた人生に戻るには、心ひとつで足りるわけがない。
エンジンなどには有り難く謙虚に、必要最低限であやかり、なるべく犠牲になった、犠牲になる予定の心に頼らないようにするのが自立心というもの。
しかし、他者を傷つけたり殺したり、産ませないようにしたりしてしまうくらいなら、道交法という名の、犠牲になった命や心に頼るほうがマシ。
ルールが整理されていない時期に率先して死ぬことになった人々の霊を慰めるのに、同じシチュエーションで死ぬバカがどこにいる…って、ときどき居るみたいだけど────。
あかんよ、ドライバーはん。
仏教はクルマには追いついていないんだから、どんなに仏教で理論武装しようとしても無駄だよ。
心を誇張してなお物質であるのがクルマなのだから、道交法は守らなきゃだめ。
守るための動機づけに、自身の心をいかに連続させ、澄ませるかが大事なのであって、自身の心を無我の境地に達させればどんな法律も破って良いなんて、そんなことではないよ、仏教は。
比叡山の糞坊主たちが調子こきすぎた経緯が見えてくるようだ。
仏教は、その時点での武器までしか追いついていない。ということは、日本刀にも追いついていない。
八百万の神々やそのほか、古来からある伝統的な倫理観のなかから現代的に利便性あるもの、平均寿命のスパンに合うものをチョイスして、仏教の真理も間に合うか間に合わないかの取捨選択をして、きちんと現実を見据えなきゃぜったいに駄目。駄"目"でしょうが。駄目になってんでしょうが。
私の視力は 18年間の運転時要メガネを経て、裸眼で運転オーケー。こないだなんか、右目は最後の小さい C マークもハッキリ見えるほどだったんだ。駄"目"だったのが、コツコツコツコツ法を守ってきて、駄目じゃなくなったんだ。コツコツコツコツに、心が無いと言ってるのがあんただろう?それは言いがかりでしかない。
冥界に逝ってスリルを愉しみ、まわりの犠牲になった心にも、犠牲にされたくない心にも不感症で、そんな投槍な心の、どこが機能した心なんだい。
何度もいうけど公道での運転の上手さと、サーキットでの運転の上手さは違う部分がほとんどだって。
異論あるならまず、レーシックつかわず駄目を駄目じゃないところまで回復させてから発言してくれないかな。
心が働いていないのは、法律をまもるまでの動機づけという中身を、自分なりにもしっかり詰められない違法ドライバーのほうだよ。ただのスピードジャンキーじゃん。ドーパミンジャンキー。合法ドーパミンならいいけど違法ドーパミンはしょっぴかれて当たり前。しょっぴかれろ違法ドライバー。
こんばんは🙂