しんじの研究小屋:安芸高田市の税金の使い途に関しての意見






────論点ずらすな、といふひとは、なんかかっこいいふうである。


しかし、今回の都知事選、たぶん俯瞰してみると…福岡からはふつうに俯瞰してみるほかないのだが…論点がずれあった候補者たちが激突している。


真意を証明するには誰であれ、違法行為をできるだけせずに目標を達成せねばならない。完全に違法行為をせずに、というのはもしかしたら無理なのかもしれない。そこはよくわからない。自分は完全にというのは無理だったということだけはわかっている。


石丸伸二はあまりに悪い目立ちかたをしている。

だが、都、というイデオロギーに、どう対するのか、紛れるのか、どういう位置づけで関わるのか。

その悪い目立ちかたが、それを問うている。

いうなれば、都は、ものすごい勢いでオカネや注意をひきつけ、あつめ、浪費している底の見えない穴に私には思えるのだが、都で表向き9割の調子で満足する暮らしをしているひとたちにとっては、なにを変える必要がある?という、やはり穴なのであろう。


竹中構造に、若者には貧しくなる権利がある、だっけ?そんなへんてこな言葉があった。

これ、正確には、金持ちには貧乏になる権利があり、貧乏には金持ちになる権利がある、と、こうじゃなかろうか。


列島は地政学的に、中央が富むというのは、列島に限って考えた場合だ。


しかして列島のほんとうの中央は山脈である。


日本列島は実用的には、とても大きくて細長い、いびつなドーナツである。


山脈に遮られる、山脈基準での西側より、山脈基準での東側が、朝日の恩恵にあやかれて1日を長く元気に活用できる。


日本人は、山脈基準での西側に、もっと配慮すべきなのかもしれない。


震災からの立ち直りが遅いという能登が、それを物語っていそうだ。


もしも石丸伸二が、山脈基準の西側の、喉から手が出るような、乾きがすごくて潤いを求める強さ、勢いを背負っているとしたら、あまりにも悪目立ちしている理由として、正当になってしまうかもしれない。



なにせ、列島は海を少し越えて西は大きな大陸、東は大きく大きく越えねば中くらいの大陸にも行き着けないから、じつは、もっと広い視野でみた地政学的、人口的には、東のほうが追い詰められた地域だからだ。



なにせ、だれだってハッピーに、幸福に生きたいもんだろう。


追い詰められた日本の山脈基準の東側は、どう生きるべきなんだろうか。




同情を欲情にかえて、ただ堕落していけばよいなどと、坂口安吾なことを云うであろうか。

防衛費を増やして山脈基準の西側を強くし、西の大陸からの勢いを削いで国家として安心して暮らしたいと云うであろうか。

どちらも、人として人間として、欠落している考え方があるように思う。


たぶん人として満杯で生きることが、ほんとうのさいわいというもので。

そのためには、山脈基準の東側はつねに高い山を超えてしかも往復してまで山脈基準の西側に朝日のお裾分けをするべきだろうし、山脈基準の西側は不動の精神で、あまり動くことなくへいぜんと、あたりまえにそれら山脈基準の東側の貢ぎ物をうけとりつづけるべきだろう。大陸に期待しないで、生身の人として生き方の"べき"を考えるならそうなる。

なんて非効率的な国土だろうか。


しかしそれこそが、人として器を満杯にして生きる生き方だ。それこそがほんとうのさいわいだ。














いま、明けがたにみた心地よい夢がなんであったか、誰がそばにいたか、思い出せなさそうな感覚が右脇腹の後ろのほうにある。

まるでその高い山を往復せよと云われているかのごとく、思い出せそうにない。思い出せそうにないのに、私がみた夢なのだから、まるで肉体の一部の近さだ。


なんだろう。

どんなゆめだったろう。









それがわかれば、なにもかも、みとおせそうなきがする。







おはようございます☔

🙂