宇宙である。
まさに宇宙である。
鏡の前で、新しい完成車にまたがって、なぜ私はこんなにもハンドルを引こうとしているのに、腰が引けてハンドルから遠ざかっているのだろう。前傾姿勢に意欲がなく見えるのだろう、と、あーでもないこーでもないをやった。
なんというか、途中をはぶいて結論をいうと、ハンドルに"きみがひつようだ!"とかぶりつこうとするとハンドルは逃げて、逆に"いやいや、きみなんかおことわりだよ、いらないよ"と押しのけようとすると、ハンドルが近づいてくるのである。
その結論に到達すると、頭が狂いそうになって、少し自転車から離れた。
自転車は単なるモノのはずなのに、なぜこんな天邪鬼な女みたいな態度を示すのか。
答えは、押す という動作が、間を詰めねば始められないから、である。
押すという動作は結果としては離すという最後を迎えるが、始まりは極力近寄るという必要がある。離すために、近寄る。
引こうとするのはその逆で、結果としてはかぶりつくことになるのだが、始まりはできるだけ離れている必要がある。かぶりつくために、離す。
一言、押す、と言っても、離れているなら先ず近寄るということを意味する。たぶん、押し続ける、であれば、近寄ったあと離すことになるだろうけど、押すぞ、という一瞬だけの決意は、逆にハンドルを引くことになるのだ…😂。
私の頭は忘れるのがひどいしすごい。
押す、と思ってまずハンドルに近づく、引くということをしたあと、肝心の押すことはせずに、忘れてしまうので、結果的にハンドルを引いたことになってしまっていたのだ!!!!!
つまりかぶりつく、も同様。かぶりつくためにまず離したあと、肝心のかぶりつくことはせずに忘れてしまい、結果的にハンドルを押したことになってしまっていたのだ…………🥲。
たぶん同じ道理でわたしは、しあわせになりたい、とおもうと、まずふしあわせなって、それから肝心なしあわせになることを忘れてしまい、ふしあわせになったままに…。
ふしあわせになってしまうと、取り戻そうとしてそのぶんさらに幸せになりたいと思い…。
決して私は天邪の鬼ではない。
純粋素朴にふつうに望んでいただけだ。
それを予備動作で忘れてしまい、
結果的に天邪鬼になってしまっていたというわけだ。
いま、あまりにも残酷な私の体内や脳内の真実に、これまでしないようにしないように心がけてきた貧乏ゆすりが止まらない。
なんてひどい。
でもこれが低空飛行苦を逃れる思考回路だったのだ…。
…なんてひどい…。
私はつまり、反対のことを望めば望み通りに生きられる人種?だったのだ。
なんてひどい。
しかし、低空飛行区に実家がある以上は、これはもう逃れられない理屈というわけだ。だってあんなムカつくこと、忘れないと憤死してしまうもの。
私は練習したいと思うほど練習できなくなり、競輪場に行きたいと思うほど行けなくなり、速く走りたいと思うほど遅くしか走れなくなっていたのだ。
遅く走りたいな、ゆっくり行きたいな、そう思えば、バンクで高速度が出せるということだ…。
頭がおかしくなりそう…。
忘れたくないと思えば忘れる。
忘れたいと思うと憶える。
…。
だから、低空飛行区の問題をおおきくはすべての低空飛行苦の根本解決、ちいさくはわたしの脱出という、低空飛行苦をおぼえつつなんとか忘れたいとおもう気持ちに基づいた少しずつの努力に関しては、波があっても蓄積が許されていたのである。そうして、私は遵法精神をもったまま、バンク走行自力 60km/h超えを実現した。かんたんにいえばそれは、ジェット気流レベルの向かい風にもまけず、その速度を出したという話だったのだ。