他責で調子に乗るタイプのスピード得るひとか…とおもうとなんとも残念ゃさ。



制限速度は大抵よく考えられてあるよ。

そりゃ、さすがにここは…!って道もあるけど、大抵はちゃんと人間の一般的な反応速度のほか、自動車が最高精度の部品では構成されていないこと、部品点数があまりに多くてアソビがとてつもなく多すぎること、それらを踏まえた数値になっているんだよ。



自動車が好きなら、スピードも出せるし他がヘボしたって無事故無違反もやり続けられる…そんな自動車を夢見て、そんな自動車の開発やそのための法整備に注力したらよかろうに。暇さえあれば、ほんの少しでも備忘録したりして。


ここから40kmくらいのところで体験したこと。同じ国道でも朝か夕方かで風向きがまったく逆になるのがお約束になっている道がある。じゃあ、その切り替わりはどんな風が吹く?風を読むことは風を肌で感じられる自転車だって難しい。


スピードを出すと、単位距離あたりの意識数は減るのが当然の向きで、そうなるとまるで自分はブレた走行をしていないかのような錯覚に陥る。それで無事故無違反が続くならブレていないねと認めるが、それで事故や違反を繰り返すのであれば、それはブレているんだと私は見做すよ。



遵法精神をもって、スキル(技)によって競技場で非凡な速度を出して競う。
競技者は、これに尽きるだろ。
非凡な速度さえ出せれば法律は無視していいんだっていうひとは競技者ではないよ。只の黙認されし違反者さ。


ウサイン・ボルトたちはサイクリングを意識した。
競輪選手はモーターバイクを意識すればいいかもしれない。ではモーターバイクはレーシングカーを意識すればいいかもしれない。でもそれらはすべて、競技場でのみやるべきことさ。混ぜてはいけないって、そういうことだろ?一段上のスピード域を当たり前に出す分野を意識してはいけないということではない。



公道はそれら競技場をつなぐ亜空間。競技場で褒められることが褒められ難いのが公道。

そして乗り物をスポーツと呼ぶならそれは、ほかの肉体接触度合いの強いスポーツからすれば亜空間のスポーツ。

公道での乗り物というのは、亜空間中の亜空間ということができるんだ。


非常に抽象的な領域なんだ。公道というのは。


乗り物の機械作品としての完成度が、気象条件が、他者が、自身の体調が…。物理的に及ぼしてくるあらゆる影響を考慮せねばならんのが公道なのに、それらをすべてドライビングテクニックで語りルールは都合に合わせて無視では、抽象領域が中傷領域にかんたんに変わってしまうよ?



自転車は左右非対称。

自動車も左右非対称。

気象条件も、他者も、人体も非対称。

すべて、対称なのは見た目だけ。

中身はすべて、非対称。



現実を受け入れろ。現実を認めろ。現実を観察しろ。そのうえで現実を噛み締めて、夢を実現せよ。




一切の中傷をやめないと、現実は見えんぞ。

中傷をこらえたぶんだけ、現実は見えるぞ。














こんばんは🙂